・矢代宿は江戸時代初期に北国街道が開削し、慶長11年に高田藩主松平忠輝が矢代村に「伝馬書」を発布し、その宿場町として成立したとされます。
宿場の中央には鎮守である須須岐水神社が鎮座し、境内を境に南側を本町組、北側を新町組に分け、全体では8町で構成されていました。
本町と新町にはそれぞれ宿役人が置かれ、宿場町の大きな役割を担った伝馬役は本町と新町が半月交代で務めていました。
天保18年の記録によると矢代宿は本陣1軒、脇本陣2軒、問屋2軒、旅籠39軒で構成されており、本陣は柿崎家が明治維新までその任を歴任しています。
柿崎家は、戦国時代に上杉謙信の重臣として知られた柿崎景家の二男柿崎弥次郎を祖とする氏族です。
ただし、一般的には景家の二男は柿崎晴家とされ、天正6年に発生した上杉謙信の後継者争いである御館の乱で晴家は春日城内で上杉景勝方に謀殺されたと伝えられています。
本陣の柿崎源左衛門家は貞享3年までは本陣と問屋だけでなく、肝煎も兼ねていた為、権力が集中していた事が窺えます。
脇本陣も源左衛門家の一族とされる善兵衛家が担い、村役人も一族の新九郎家の名が見られます。
矢代宿は交通の要衝でもあり、本陣と脇本陣の間から、松代藩や須坂藩、飯山藩の藩都を経て越後の十日町とを結ぶ谷街道が分岐していました。
北国街道の隣の宿場町である篠ノ井追分宿との間には千曲川が流れてる為、矢代の渡しが設けられていました。
明治維新により街道制度が廃止になりましたが、引き続き周辺の経済と行政の中心として地位を維持した事から明治12年には埴科郡の郡役所が設けられています。
明治21年に信越本線の開通や近代交通網の整備に伴い、地政学的な優位性が失い次第に衰微しています。
現在は建て替え等も進み、昔の町並みは失われつつあります。
北国街道:宿場町・再生リスト
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