・池田の地は平安時代に矢原庄と大穴庄、前見庄と呼ばれた三つの荘園がありましたが、中世以降、大町に本拠地を構え仁科庄を管理していた仁科家の支配下に入り中島氏や渋田見氏等一族や家臣達が配されていました。
戦国時代に武田信玄の信濃侵攻により仁科氏がその軍門に下ると、武田家の領内流通と軍事行動の利便性を図る為に街道整備が行われ、池田村も伝馬駅に指定されています。
江戸時代に入ると松本藩に属し、引き続き千国海道の宿場町に指定され慶長13年には伝馬役に200石の石役を割り当てられています。
元和5年に松本藩主戸田康長は嗣子の松平忠光に支藩を立藩させる為に池田宿の一角に藩庁となる若松城の築城を開始、石高は池田組と松川組、大町組、合計1万5千石を計画していました。
しかし、若松城の完成前、寛永6年に忠光が死去した事から支藩立藩の計画は頓挫し、造りかけの城も破却されています。
一方、池田組は宿場町として周辺の物資が集積される経済の中心だった事から城址の一角には松本藩の出先機関である「御他屋」が設けられています。
御他屋は享保10年に編纂された「池田組高辻帳」によると東西8間3尺、南北10間4尺の敷地に板葺きの施設が複数設けらていました。
その後は宿場町として発展し、文化13年の記録である「池田宿問屋帳」によると南の穂高宿には麻、肴、布、紙、藍、繭等を押野村へは紙、刻莨等を北の大町宿には藍等を積んだ荷物を継いでいます。
民間の運搬が盛んになると「中馬」と呼ばれる仲間内で荷物の継立が行われるようになり、池田宿には66頭の馬が「中馬」として利用されています。
江戸時代後期になると松本藩が奨励した事もあり養蚕業が飛躍的に発達し、「新撰養蚕秘書」や「養蚕掃立ての手引き」等最新技術を導入する養蚕農家も現れました。
さらに、民間人にも学業意欲が高まり、住民達の協力により天明8年に林泉寺の隣地に池田学問所が開設され、明治5年に池田上学校、下学校が設立されるまで池田の教育の中心として多くの人材を輩出しています。
池田宿は南北6町48間、宿場内の街道の中心には高瀬川から引き込んだ町川が流れ、随所に橋が架けられていました。
又、宿場の南北の出入り口にはそれぞれ如意輪観音堂が設けられ、結界神として崇められていました。
現在も複数の伝統的な町屋建築が点在し落ち着いた町並みを見る事が出来ます。
千国街道(塩の道:松本街道・糸魚川街道):宿場町・再生リスト
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