・海ノ口の地名の由来は判りませんが、眼前に広がる木崎湖が「海」に例えられ、そこに農具川が流れ込む流入口があった事から名付けられたと思われます。
古代から日本海と信州内陸部を結ぶ経路上にあったと見られ、平海ノ口一津遺跡では糸魚川産の翡翠の加工口上だったと思われる翡翠の玉やペンダント、加工道具等が発見されています。
又、一津遺跡で加工された製品や道具は東北地方や東海地方、北陸地方、関東地方にも運ばれたようで、上記の土器が複数発掘され繁栄ぶりが窺えます。
さらに、鎮守である海ノ口上諏訪神社には弥生時代に北部九州を中心によく見られる銅戈を所有しており、経緯は判りませんが、翡翠の加工場として各地の豪族と繋がりがあった事が関係したのかも知れません。
海ノ口上諏訪神社の銅戈は、確認されている銅戈は、確認されている銅戈の北限として貴重な事から大町市指定文化財に指定されています。
平安時代後記以降、仁科家が支配し鎌倉時代には木崎湖の湖畔に、仁科家の「後詰めの城」として森城が築かれ、重きを成しています。
地名の初見は文禄年間に編纂された筑摩安曇両郡郷村朱印御高附に、「百四拾弐石五斗八升六合 海ノ口村」と記されています。
木崎湖を挟んで、西海ノ口村と東海ノ口村に分かれ、江戸時代に入り正式に築街道が開削されると西海ノ口村に街道筋が整備され宿場町に指定されています。
西海ノ口村の鎮守 海ノ上諏訪神社が何時頃開創されたのかは判りませんが、戦国時代に武田信玄の信州侵攻により仁科氏がその軍門に下ると、信玄の庇護を受け、社領の安堵状が発給されています。
明治時代以降、木崎湖の東側に主要道の開削や国鉄の海ノ口駅が開業した事から衰退を余儀なくされています。
現在も街道沿いには茅葺の不動堂や伊勢社、石仏、石碑等が点在し古道の名残が見られます。
千国街道(塩の道:松本街道・糸魚川街道):宿場町・再生リスト
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