・成相郷は中世、成相氏が支配していましたが、出自等は不詳で、戦国時代には武田家に従っていたようです。
当地は千国街道と熊倉道、松本往還、飛騨街道が分岐する交通の要衝だった事から武田家が信濃支配を円滑にする為に街道を整備すると、軍事拠点として方一町の「屋敷構え」が設けられ、熊倉道沿いには堀を巡らせています。
天正10年に武田家が滅亡すると、成相氏は当地の領主として復権した小笠原貞慶に従っています。
天正11年2月14日に発給された犬甘久知宛の小笠原貞慶の書状によると、当時の成相氏は小笠原家の重臣犬甘氏に仕え、成相藤兵衛と成相猪之助が日岐城に在番していた事が窺えます。
天正18年、小笠原貞慶が構われ者の尾藤知宣を客将として迎えた事で改易になると、成相氏はそのまま帰農し庄屋として命脈を繋いでいます。
江戸時代に入ると当地は松本藩に属し、千国街道の経路変更に伴い、慶長9年に宿場町に指定されています。
慶長13年には伝馬役に300石の石役を割り当てられています。宿場は成相本村の枝郷の成相町村と新田町村で構成され、上町が成相町村、中町と下町は新田町村となっています。
新田町村は藤森家、中島家、丸山家の三家が中心となり開発された村で、松本領から39人、諏訪から29人、松代から3人、善光寺から1人、甲州から4人、飛騨から2人、越前から2人、駿府から1人、越後から1人、越中から1人、出羽から1人の入植者が記録されています。
町割りは間口7間、奥行は東側が65間、西側が60間、宿場町で良く見られる桝形が無い事が特徴の一つとなっています。
新田町村の開発者の一家である藤森家は引き続き種ばないで大きな権限を持つ、「おやかた」、「おかしら」、「問屋」、「藤野屋」を屋号として揚げる四家があり、特に江戸時代後期以降は藤森善兵衛家が大庄屋を歴任しています。
文化年間の藤森善兵衛は文化人として知られ、十返舎一九が当地に「続膝栗毛」制作の為、取材に訪れた際には、当家で逗留させ満願寺を案内する等、約一ヵ月程篤く持て成したとされます。
法蔵寺は永正3年に承蓮社傅誉上人が開山した浄土宗の寺院で、成相新田宿の開宿に伴い慶長16年に現在に遷され、松本藩の厳しい廃仏毀釈政策により明治4年に廃寺に追い込まれたものの、明治13年に再興されています。
千国街道(塩の道:松本街道・糸魚川街道):宿場町・再生リスト
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