沢渡・佐野宿

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沢渡・佐野宿:略データ
・場 所・長野県白馬村沢渡・神城
・概 要・沢渡村が何時頃に成立したのかは判りませんが、沢渡郷の鎮守である沢渡(三日市場)神明社は白鳳年間に勧請されたのが始まりとも云われ、それが正しければ7世紀まで遡ります。

一方、伊勢神宮の荘園とされる仁科御厨の鎮護の為に開創された仁科神明宮とは関係が深く、後冷泉天皇の御代以降に仁科御厨が成立したと考えられ、厨司とされる仁科氏も、その頃に出現している事から、当社も平安時代後期以降に開創されたと推定されています。

沢渡神明社は弘安6年に銘が刻まれた懸け仏を二面所有し、仁科神明宮も同一のものが現存している事から、大旦那だった仁科家が当地も支配し、同時期に両社に寄進したと思われます。

その後、当地には一族が配され、地名に因み「沢渡」姓を掲げ長く沢渡の地を統括しました。

沢渡氏の文献の初見は「大塔物語」で応永7年に発生した大文字一揆に参加した仁科盛房勢の中に「沢戸五郎」の名が記されています。

その後、永禄10年8月7日に現在の長野県上田市下之郷(信濃国小県郷下之郷)に鎮座している生島足島神社に仁科家の有力一族である堀金盛広が奉納した連署起請文の中に「沢渡兵部助盛則」の名が記されています。

天正16年には当時の当主である沢渡盛忠、牛乗節が大旦那となり沢渡神明社の本殿と相殿の諏訪社本殿を造営しています。

地名としての初見は天正10年9月19日に小笠原貞慶が沢渡九八郎盛忠に発給した安堵状で「沢渡之儀、其方可有相続趣、先程申出候之、弥以不可有相違候」と記されています。

沢渡氏は武田信玄の信濃侵攻以来武田家に従ったものの、天正10年に武田家が滅亡した為、領主として復権を果たした小笠原貞慶から旧領安堵の約束を得た事が判ります。

天正18年に徳川家康の関東移封に伴い小笠原氏が下総国古河に3万石で移封になった際、沢渡氏もそれに従い当地を後にしています。

佐野村の名称の初見は文禄年間頃に成立した筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附に「九拾五石壱斗三升四合 佐野村」と記されています。

江戸時代に入ると沢渡り村、佐野村は松本藩に属し、沢渡、佐野、飯田、飯盛から成る四ヶ庄(四ヶ条)と呼ばれました。

千国街道(松本街道)が開削されると沢渡村と佐野村は宿場町に指定され、距離が近く規模が小さかった事から両宿で一つの宿駅の役割を担う合宿でした。

現在は当時の賑わいはありませんが、街道沿いには数多く石仏や石碑、小さな御同等が点在し、苦しい生活の中に見出した心の拠り所が見られます。

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