保高宿(千国街道)概要: 保高宿は古代から信仰されてきた穂高神社の門前町が前身と思われますが、戦国時代に入り日本海との物流が重要視されるようになると武田家によって流通の拠点として町割が行われています。江戸時代に入り、千国街道が正式に開削されると伝馬制に対応出来るように慶長13年(1608)に宿場町として整備されています。
保高宿の大きさは3町(約1キロ)程で西側南半分が保高町村、西側北半分と東側が等々力町村の2つの村で構成され、北側と南側には枡形が設置されていました。
郊外には中世以来長く当地を支配した等々力氏の居城である等々力城の跡地があります。等々力氏は武将としては没落したものの、その後も当地に土着し土豪として領主として従い、江戸時代は大庄屋として周辺の庄屋を代表する立場となっています。等々力家の邸宅は長屋門や書院などが残されており安曇野市指定文化財に指定されています。
保高宿には現在でも街道沿いに古い町屋建築や土蔵などが点在し往時の雰囲気が僅かに残されています。
千国街道(塩の道:松本街道・糸魚川街道):宿場町・再生リスト
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