信定寺

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概要・歴史・観光・見所
信定寺(長和町・和田宿)概要: 信定寺は長野県小県郡長和町和田下町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。信定寺の創建は天文22年(1553)当時の和田城主大井信定の菩提を弔う為開かれたのが始まりと伝えられています(天文22年に武田信玄の侵攻により和田城は落城、信定は自刃して果てたとされます)。江戸時代に入ると京都二条殿の祈願所として庇護され日光東照宮(栃木県日光市)を参拝する例幣使一行や諸大名は当寺に参拝したそうです。江戸時代後期には名僧で佐久間象山などの識者が師事した活文禅師が14世として約10年間当寺の住職を務めています。

信定寺には寺宝も多く釈迦如来座像や小梵鐘、山水六曲屏風、中国陳晴山書、一弦琴、活紋禅師の七言絶句、本堂の額、「相生の竹」の歌詞、釈迦涅槃図などがあります。山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、二重鐘楼門。本堂は江戸時代後期の文政年間(1821〜1822年)に建てられたもので、木造平屋建て、銅板葺、平入、桁行9間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、腰壁は板張り。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 信定寺:菩提者(大井信定) 】-大井信定は武石城主大井信広の次男とされ和田城に配されました。大井家は武田信玄の生母の実家の一族でしたが天文22年(1553)、信広、信定共に武田家を離反して突如として長尾景虎(上杉謙信)に与し、同じく影虎に与した村上家と共に挙兵します。信定は矢ヶ崎城を接収し家臣である泰次郎右衛門幸清を配して守りを固めますが武田軍に侵攻により落城、信定も討死したと伝えられています。その後、居城である和田城も落城し一族郎党悉く討死、当地方は信玄により平定されました。天文22年(1553)、信定の菩提を弔う為に信定寺(長和町)が創建され、元禄6年(1693)には信定寺第六世来安察伝和尚が、居館跡(現在の若宮八幡神社境内)で信定父子の首が埋められた場所に墓碑が建立されました。

信定寺の文化財
・ 木造釈迦如来坐像-鎌倉〜南北朝時代,像高86p-長和町指定文化財
・ 木造三宝荒神立像-室町時代,像高65.5p,台座高34p-長和町指定文化財
・ 山水六曲屏風-江戸時代-狩野派:泰燕恪作-長和町指定文化財
・ 陣鐘-延徳2年-銅製、高さ30.3p,口径18.9p-長和町指定文化財
・ 恵林禅人臨川の偶-文政2〜7年-活文禅師書-長和町指定文化財

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(沿革と由来)-信定寺
・ 現地案内板

信定寺:写真

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