長和町(歴史)概要: 長和町は旧石器時代から縄文時代にかけて黒耀石の一大産地だった地域です。黒耀石は加工され石器として利用された事から長和町で産出された黒曜石は全国に運ばれ、北は青森県の三内丸山遺跡、南は兵庫県の近桜ヶ丘遺跡で発見されています。この事からも長和町は約3万年にも渡り全国各地と繋がり黒耀石の供給地だったと推定されます。平安時代に入ると美ヶ原の放牧が記録されるなど開発が進みました。
中世に入ると芦田氏が支配し、その後は佐久地方に大きな影響力を持った大井氏の支配下となり応永年間(1394〜1427)に長窪城を築くと長窪氏を名乗り長くこの地を治めました。天文12年(1543)に武田信玄(当時は晴信)の侵攻により長窪城は落城し、その後は武田家の東・北信濃侵攻への軍事的拠点として重要視され、天文17年(1548)の上田原の戦いや天文19年(1550)の「砥石崩れ」などで信玄が利用しています。武田家が滅亡すると真田昌幸が支配しますが昌幸が上田城を築くと重要性が失われ長窪城は廃城になっています。
江戸時代に入り中山道が開削されると長和町には長久保宿と和田宿が開かれ長久保宿は背後に笠取峠を控え善光寺へ向う街道との追分でもあった為、旅人や参拝客などで栄え、和田宿は中山道最大難所といわれる和田峠を控えていた為、参勤交代で利用する大名が宿泊で利用し、特に幕末の文久元年(1861)11月6日には皇女和宮が江戸へ降嫁の際、和田宿本陣で宿泊しています。天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると長久保宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒。和田宿では本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒、最盛期には70軒の伝馬役があったとされます。両宿とも明治時代に入り宿場制度が廃止となり衰退しましたが現在でも古い町屋が点在し当時の宿場町の様子を今に伝えています。
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