福島宿(木曽路)・長福寺

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福島宿(木曽路)・長福寺

【 概 要 】長福寺(長野県木曽郡木曽町福島門前)は飛鳥時代の大宝2年(702)に創建され古寺です。福島宿(木曽路)・長福寺当初は薬師平に境内を構えていましたが、永享2年(1430)に木曽豊方が小丸山城(応永年間:1394〜1427年に木曽親豊が築いたとされる木曽氏初期の山城)の城下に移し再興、竺陰禅師を招いて中興開山しています。その後荒廃しますが、戦国時代の大永年間(1521〜1527年)に木曽義元が旧領である上州沼田(現在の群馬県沼田市)から移った事を受け、信叔禅師を招いて中興開山し宗派を臨済宗に改めています。ただし、木曽義元は永正元年(1504)に敵対していた飛騨領主姉小路済継の家臣である三木重頼に王滝城で大敗し、その時受けた傷が元で死没している事から年代的には矛盾があるとされます。信叔禅師は義元の叔父にあたる人物とされ妙心寺(京都府京都市右京区花園:臨済宗妙心寺派大本山)の持住でしたが義元から招かれ長福寺を臨済宗妙心寺派の寺院として中興開山したとされます。戦国時代に入ると武田信玄による木曽谷侵攻が本格化し、天文24年(1555)に木曽義康は武田家と形式的には和睦、事実上従属するようになり、信玄の娘万里姫と、義康の嫡男義昌の婚儀が成立しています。木曽義昌は長福寺を篤く庇護し、永禄年間(1558〜1569)には寺領を寄進し霊廟を造営、天正元年(1573)に信玄が三河国侵攻中に病死すると長福寺の境内に信玄の遺品が埋葬され供養塔(五輪塔)が建立しています。天正18年(1590)、徳川家康が関東移封になると、徳川家に従っていた木曽義昌も下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)1万石移される事となり木曽谷を離れると、家臣筋だった山村家が庇護するようになっています。文禄3年(1594)に火災により長福寺の堂宇が焼失すると山村良利により再建が図られ、江戸時代には引き続き木曽代官に抜擢された山村家が菩提寺の1つとして加護を加えています。往時は興禅寺(長野県木曽郡木曽町福島門前)、定勝寺(長野県木曽郡大桑村須原)と共に木曽三大寺に数えられ、木曽家、山村家縁の寺宝を数多く所有していましたが昭和2年(1927)の火災により悉く焼失し、唯一「巴御前の長刀」と伝えられる刀剣が焼失から免れています。

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