福島宿(木曽路)・興禅寺

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福島宿(木曽路)・興禅寺

【 概 要 】−興禅寺(長野県木曽郡木曽町福島門前)は室町時代の永享6年(1434)福島宿(木曽路)・興禅寺木曽義仲の後裔を自称する木曽家12代当主木曽信道が円覚太華和尚を招いて創建した寺院です。その後、明応5年(1496)に木曽義元が中興し叔雅和尚が中興開山しています。木曽氏は国人領主とし長く木曽谷周辺を支配した事から興禅寺はその庇護により木曽家縁の長福寺(長野県木曽郡木曽町福島門前)、定勝寺(長野県木曽郡大桑村須原)と共に木曽三大寺に数えられ天正18年(1590)に当地を訪れた細川幽斎も「東国陣道記」に当時の様子を記載しています。木曽氏は戦国時代に武田家に従い、武田家に陰りが見え始めると織田家に転じ、本能寺の変の織田信長が倒れると徳川家に従いました。天正18年(1590)、小田原北条氏が滅亡した事を受け、徳川家康が関東移封になると、それに従った木曽義昌も下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)1万石で移封となり当地を離れました。江戸時代に入ると、木曽氏の一族で家臣筋だった山村氏が関ヶ原の戦いの際に木曽路を進軍した徳川秀忠率いる徳川本隊を手助けした事から木曽代官に抜擢され、興禅寺は山村家の菩提寺となり篤く遇されるようになりました。寛永18年(1641)、明治39年(1906)、昭和2年(1927)の3度の火災によりその都度大きな被害を受け往時から伝わるものが少なくなっています。境内には現代作庭家重森三玲が作庭した「看雲庭」をはじめ、小口基實が作庭した「昇龍の庭」、「須弥山の庭」、江戸時代に作庭された「万松庭」の4つの赴きの異なる4つ名園があり、墓地には歴代山村家の墓碑、歴代木曽家の墓碑 、木曽義仲の供養塔(愛妾とされる巴御前が義仲の遺髪を納めたと伝えられています)が建立されています。又、昭和14年(1939)に、明治から昭和初期の俳人として知られる種田山頭火が興禅寺の木曽義仲の墓所を参拝した関係から境内に句碑「さくらちりをへたるところ旭将軍の墓」が建立されています。

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