浄龍寺(塩尻市奈良井)

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奈良井宿(木曽路)・浄龍寺

【 概 要 】−浄龍寺(長野県塩尻市奈良井宿)は鎌倉時代初期に落合五郎兼行の嫡男、落合兼興によって創建されたと伝わる寺院です。落合五郎兼行は美濃国恵那郡落合村(現在の岐阜県中津川市落合)に館を構えた平安時代末期の武将で、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠と共に木曽四天王の一人に数えられた根井行親の子供とも云われています。兼行は木曽義仲挙兵時から義仲に従い、白鳥河原の勢揃(長野県東御市本海野)、横田河原の戦(長野県長野市)、倶利伽羅峠の戦い(石川県河北郡津幡町倶利伽羅・富山県小矢部市石坂)、篠原合戦(石川県加賀市旧篠原村地区)などに参戦しましたが、寿永3年(1184)に義仲が源頼朝に追討を受け、源範頼・義経率いる鎌倉軍に粟津の戦い(滋賀県大津市)で敗れ自刃した後は消息不明となっています。奈良井宿に境内を構える浄龍寺に伝わる伝承では兼行の嫡男、落合兼興は義仲死後、奈良井村山中に落ち延び、萱ヶ平(長野県塩尻市楢川村奈良井萱ヶ平)を開拓したとされます。

兼興は仏教を熱心に信仰していた事から萱ヶ平に一宇を設ける為に建歴3年(1212)に北陸に赴き越後国小丸山(新潟県上越市:小丸山別院・本願寺国府別院)で出家して親鸞聖人の弟子となり法名「玄興」と姓「藤井」を賜り、建保元年(1213)に萱ヶ平に戻り玄興寺を創建したと伝えられています。その後、時代が下がると衰微して草庵程度となり、鎌倉時代後期の正安2年(1300)に兼行の孫の玄徳が奈良井村に境内を遷しました。戦国時代に当地の領主となった源義昌(木曾義昌:義仲の後裔)は由緒を聞いて木曽家とただならぬ縁を感じとり、天正17年(1589)に現在地である西町裏池ノ澤麓に境内を移し再興、池澤山玄興寺に山号を改めました。江戸時代初期の天保2年(1645)に宣如聖人(京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町:東本願寺第13代法主)から本尊となる阿弥陀如来像を賜り、寺号を「浄龍寺」、山号を「玄興山」に改称しています。宗派:浄土真宗真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来像。

現在の浄龍寺本堂は江戸時代後期の天保8年(1837)の火災で焼失した後の嘉永5年(1852)に再建されたもので、木造2階建、切妻、妻入、銅板葺、本棟造、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、棟飾りには「雀おどし」、2階正面には出窓、庫裏と仮本堂を兼ねた建物で、一般的な寺院本堂建築とは印象が異なります。又、彫刻家の石井鶴三の縁の寺院でもあり、昭和24年(1949)から昭和29年(1954)まで浄龍寺に滞在し藤村木彫像を制作しています。

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