高遠藩主内藤家:概要

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概要・歴史・観光・見所
高遠藩主内藤家(満光寺)

【 概 要 】−元禄4年(1691)、内藤清枚が天領だった信濃国伊那領3万3千石が与えられ高遠藩(藩庁:高遠城)を立藩、初代藩主に就任しています。清枚は幕政では大坂加番、奏者番などの要職を歴任し、藩政では新田開発や権兵衛街道の開削などに尽力し実績を挙げています。2代頼卿は要職こそ少なかったものの江戸城の門番、増上寺の警備、日光東照宮参拝の御用など多数の公務が重なった事で藩の財政が悪化し藩政改革の必要性に追われています。又、正徳4年(1714)には江島生島事件により高遠藩内藤家に遠島となった江島(絵島)を軟禁しなけれならず、高い壁に囲われた屋敷を設け10人前後の足軽による24時間体制で周囲を見張り28年間、江島が61歳で死去するまで続けられ財政にも大きな負担となりました。

3代頼由も大坂加番、奏者番などを歴任した為、引き続き財政を圧迫した為、継続的に藩政改革が続けられ、特に藩士へに支給は金給制から俸禄制に改めています。5代長好は藩政には積極的では無く遊興にふける事が多かったとされ財政は圧迫しています。

7代頼寧は名君とされ幕政においては奏者番や若年寄などの要職を歴任し、藩政でも軍備の近代化、人材育成、産業育成、新田開発、文化奨励などを行なっています。8代頼直は、先代を引き継ぎ藩校である進徳館を開校しています。戊辰戦争の際は比較的早くから新政府軍に協力、旧幕府側である奥羽越列藩同盟側と対立し北越戦争や会津戦争などに従軍しています。満光寺(伊那市高遠町)は内藤家の領内菩提寺で、通常は江戸菩提寺である太宗寺(東京都新宿区新宿:新宿には内藤家の下屋敷があり内藤新宿の地名にもなりました。

太宗寺では内藤正勝の葬儀が行われ、清枚以後は菩提寺として歴代当主が埋葬されました。)に葬られています。内藤家の庇護の下、寺運が隆盛し往時は領内一の伽藍の規模を誇り「伊那善光寺」の異名がありました。又、境内には保科正光の養子で次期藩主候補だったものの、徳川秀忠の御落胤の幸松丸(後の保科正之、徳川家光の異母弟)を養子にした事で廃嫡された保科左源太の墓碑が建立されています。

満光寺は元文4年(1739)に本堂を再建されて以来、善光寺(長野県長野市)に模した造りだった事から「伊那の善光寺」と呼ばれるようなったとされます。再建した満光寺本堂の規模は桁行12間、梁間12間の巨大な堂宇だったとされ、対する善光寺の間口29.9m(13間強)、奥行53.7m(29間半)と、善光寺の方が2倍以上、また、満光寺が科の木を用いたのに対し、善光寺では欅材が使用され、両寺共に本尊として阿弥陀如来像が安置されています。

比較すると本尊が同じ以外は異なるようですが、当寺の高遠藩老である葛上紀流が編纂した領内の地誌である「木下陰」に満光寺を「伊那一番の伽藍なり」と評している事から、伊那地方では稀な程規模が大きく善光寺のような立派な寺院という事なのかも知れません。

満光寺:写真
高遠藩主内藤家と縁がある満光寺 高遠藩主内藤家と縁がある満光寺 高遠藩主内藤家と縁がある満光寺 高遠藩主内藤家と縁がある満光寺
高遠城:写真
高遠藩主内藤家と縁がある高遠城石垣には苔が付き歴史が感じられます 高遠藩主内藤家と縁がある高遠城大手門は改変されているますが数少ない遺構として貴重です 高遠藩主内藤家と縁がある高遠城の郭を形成している石垣 高遠藩主内藤家と縁がある高遠城本丸に掛けられた桜雲橋
進徳館:写真
高遠藩主内藤家と縁がある進徳館(学問所) 高遠藩主内藤家と縁がある進徳館(学問所) 高遠藩主内藤家と縁がある進徳館(学問所) 高遠藩主内藤家と縁がある進徳館(学問所)



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