武節宿(三州街道・豊田市)概要: 三州街道(伊奈街道)の宿場町で秋葉神社に通じる秋葉街道の分岐点であった為交通の要衝として発展しました。分岐点の角には屋号「角屋」があり、その前には明和5年(1768)に稲橋村の名主4代目古橋源六郎義陳が秋葉常夜燈を建立し参拝者の便宜を図っています。
名倉川には橋が掛けられ「せきや」と呼ばれる番小屋が設けられ「人馬改め所」として関所のような役割を担っていました。
案内板によると「 関所の番語や小屋を関屋といい、この家は村境にあって不審者や浮浪者が村に入らないに見張りをする「人馬改め所」があったことからつけられた屋号である。 ※ 代々庄屋を務めた旧家で、武節開祖のうちの一軒で、武節城の畳が敷いてあった。」とあります。
武節城は永正年間(1504〜1520)に菅沼定信によって築かれた平山城で当地は信州と美濃の国境に接していた事から重要視されました。天正18年(1590)に廃城になって以降は宿場町として機能し周辺地域経済の中心としての立場を維持しました。
武節宿の本陣は代々庄屋利左衛門家が世襲し文化8年(1811)には日本地図製作の為測量中の伊能忠敬が本陣を宿所として利用しています。 昭和17年(1942)の大火で多くの建物が焼失し現在見られる町並みは多くのは大火後に再建されたものでが所々に大規模な町屋が点在し繁栄した往時の名残が見られます。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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