青柳宿(筑北村)概要: 青柳宿は戦国時代この地を支配していた青柳氏の城下町として発展した町です。青柳氏は麻績氏の一族で、麻績御厨預職などの重責を担い戦国時代には国人領主として一定の勢力を確保していましたが、当時従っていた小笠原家が武田信玄の侵攻により没落すると武田家に従い、天正10年(1582)に武田家が滅びると織田家に従い、同年に織田信長が本能寺の変で倒れると上杉景勝に従いました。しかし、越後国内で新発田重家の乱が起きると上杉勢が信濃国から一時撤退、それに伴い徳川家康の後ろ盾を得て復権した小笠原貞慶が侵攻し、和議を結ぶ為に青柳頼長が赴いた松本城で忙殺されると青柳氏は大名家からは没落しました。宿場背後の山の山頂には青柳城が築かれ、麓にある青柳氏の菩提寺である清長寺が境内を構えています(青柳城と清長寺は共に長野県指定史跡)。
慶長19年(1614)、当時の松本城主小笠原秀政が善光寺西街道を開削すると宿場町として整備され、宿場は東西600m(5町28間)、東側に横町がありL字型を形づくりその角には領主の後裔である「青柳八郎右衛門」邸が配されました。青柳八郎右衛門家は代々本陣職を世襲し問屋役を兼ねるなど宿場内で大きな影響力を持ち、黒門や入母屋の主屋など格式高い屋敷は町並みの中でも異彩を放っています。
町並みの特徴としては街道の片側に石垣を組んだ水路がそのまま残り、町割りされた敷地毎に段差を設けて(区画毎に取水口が設けられています)、傾斜地に設けられた青柳宿の印象的な風景を感じさせてくれます。又、宿場を抜けた所には天正8年(1580)に青柳伊勢守頼長によって切り出された切通し(昭和30年に車が通れるように拡幅されている。)には馬頭観音をはじめ多くの石仏が安置されていて当時の街道の雰囲気を醸し出しています。
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