佐久甲州街道

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概要・歴史・観光・見所

【小諸宿】−小諸宿(長野県小諸市)は北国街道の宿場町と同時に甲州とを結ぶ佐久甲州街道の起点でもあり古くから交通の要衝として重要視されました。戦国時代に武田家の領地になると、武田家の信濃侵攻の拠点として小諸城が大改修され本格的な城郭に改変されました。江戸時代に入ると小諸藩の藩庁と藩主居館が置かれた小諸城(日本100名城・日本さくら名所100選・大手門、三之門は国指定重要文化財)の城下町として発展しました。街道沿いには本陣(国指定重要文化財)や脇本陣の遺構や、海応院や光岳寺などの寺社仏閣、ほんまち町屋館(旧清水屋)や北国街道与良館、酢久商店などの古民家が点在しています。

【岩村田宿】−岩村田宿(長野県佐久市岩村田)は中山道の宿場町と同時に岩田村藩の藩庁が置かれた岩田村城(未完成)の城下町として発展した町です。岩村田宿からは小諸や甲州とを結ぶ佐久甲州街道が延びていた事から交通の要衝として経済的に発展し当地域の中心的な存在となりました。本陣や脇本陣は置かれず、身分の高い人物の宿泊や休息には龍雲寺(武田信玄が帰依した北高禅師縁の寺院、武田信玄の墓碑?)や西念寺仙石秀久と内藤正国の菩提寺)を利用し事実上の本陣とされました。

【野沢宿】−(長野県佐久市野沢)野沢宿は佐久甲州街道と、中山道の脇往還である下仁田街道(富岡街道)が交差する交通の要衝で、物資の集積地として発展しました。中世には長く周辺を支配した伴野氏の居館(伴野城・野沢館・長野県指定史跡)が設けられ、見通しの悪い通りがあるなど城下町らしい町割りが残されています。江戸時代に入ると居館の跡は岩村田藩の出張所が設けられ引き続き行政施設として機能し、戊辰戦争の際には新政府軍により軍事利用されています。

【龍岡城下・臼田宿】−臼田宿(長野県佐久市臼田)は佐久甲州街道の宿場町で、街道沿いには比較的古い町並みが残され土蔵や土塀、板塀、水路などが散見されます。臼田宿の千曲川を挟んだ対岸が龍岡藩の藩庁が置かれた龍岡城の城下町です。龍岡城は江戸時代末期に築城され、日本では函館五稜郭と合わせて2例しかない五稜郭形式の城郭です。財政不足と明治維新を迎えた為、龍岡城は未完だったとされますが、現在でも石垣や堀、土塁などの遺構を見る事が出来ます。龍岡城の城下町郊外高台に鎮座する新海三社神社は古くから佐久地方の惣社として信仰されてきた神社で、周辺には古墳が点在し、古代佐久地域の中心だった事が窺えます。新海三社神社は明治時代に入るまで神仏習合していた為、境内には三重塔(国指定重要文化財)が残され、当寺の名残が感じられます。新海三社神社には古い社殿が多くの残され中でも東本社は室町時代の建物で国指定重要文化財に指定されています。

【高野宿】−高野宿(長野県南佐久郡佐久穂町高野)は佐久甲州街道と武州往還(現在の埼玉県秩父地域とを結ぶ街道)が合流する交通の要衝です。武州往還は戦国時代に武田信玄の上州(現在の群馬県)侵攻の軍用道路として重要視され街道沿いには勝見城などを設けていました。

【上畑宿】−上畑宿(長野県南佐久郡佐久穂町畑上畑)は佐久甲州街道の宿場町で、街道沿いには旧家が多く落ち着いた町並みを町並みを随所に残しています。

【海尻宿】−海尻宿(長野県南佐久郡南牧村海尻)は佐久甲州街道の宿場町で、街道沿いには旧家が多く落ち着いた町並みを随所に残しています。又、軍事的要衝の地で戦国時代には海尻城が築かれ、天文5年(1536)には武田信虎が、天文9年(1540)には武田家臣板垣信方が侵攻し激戦が繰り広げられています。

【海ノ口宿】−海尻宿(長野県南佐久郡南牧村海ノ口)は佐久甲州街道の宿場町で、街道沿いには旧家が多く落ち着いた町並みを随所に残しています。又、軍事的要衝の地で戦国時代には海ノ口が築かれ、天文5年(1536)には武田信虎が侵攻し激戦が繰り広げられています。武田家の持ち城になると、武田信玄の佐久侵攻の際には陣所に利用されるなど引き続き重要視されています。

【平沢宿】−平沢宿(長野県南佐久郡南牧平沢)は佐久甲州街道の宿場町で、甲州の入り口として重要視されました。現在、明確な遺構が少なくなっています。

【韮崎宿】−韮崎宿(山梨県韮崎市)は甲州街道と佐久甲州街道が合流する交通の要衝で、中世は武田家一族が居館を設け、氏神の1つ武田八幡宮が鎮座しています。戦国時代には武田勝頼が真田昌幸に命じて、新府城が築かれ重要視されていた事が窺えます。


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