佐久市: 西念寺

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概要・歴史・観光・見所
西念寺(佐久市)概要: 西念寺の創建は弘治元年(1555)、武田信玄が開基となり岌往上人西念寺(出生不詳の甲州の名僧、京都知恩院二十一世、60〜70カ寺の開山に携わったとされます)が開山したのが始まりと伝えられています。当初は天文8年(1539)、少し離れた場所に岌往上人が十王堂を設けて浄土宗の教えを周辺住民に教えていたそうです。境内には元々信楽院という別の寺院がありましたが、西念寺が信玄の庇護の元接収し、永禄3年(1560)には桁行8間、梁間6間の本堂が造営されました。

天正18年(1590)、小田原の役で功で小諸城主として復権した仙石秀久が篤く帰依し文禄年間(1592〜1596年)に堂宇の修築など境内の整備を行い自らの菩提寺としました。慶長19年(1614)、秀久は江戸から小諸への帰路の途中、武蔵国鴻巣(埼玉県鴻巣市)で死去、享年63歳、戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」、菩提は鴻巣にある勝願寺に一旦葬られたと見られ、その後、勝願寺に分骨され墓碑(宝篋印塔)が建立されています。又、居城である小諸城の城下にあった宝泉寺が仙石家の菩提寺だったとされ、跡を継いだ忠政が上田城に移封になった際、宝泉寺(芳泉寺)を城下に移し秀久の墓碑も改葬されています。その為、秀久の墓碑は西念寺、勝願寺、芳泉寺の3箇所にあります。

元禄16年(1703)に内藤正友が1万6千石が与えられ岩村田藩(藩庁:岩村田城)が立藩すると藩主内藤家の菩提寺に指定され、以後、内藤家の庇護の下、寺運も隆盛し信濃国浄土宗五か寺(西念寺・春了寺・大英寺・来仰寺・貞松院)の宗派頭となり、寛永年間(1748〜1751年)に再建された本堂の他山門や楼門(三間三戸、入母屋、瓦葺き)などの諸堂が整備されました。

本尊の阿弥陀如来座像は藤原時代の末期、定朝様、寄木造り、像高130cm、漆箔、螺髪彫出し、長野県内に置ける優れた仏像で墨書から修理年や願主など記されている資料的価値などから昭和34年(1959)に長野県指定県宝に指定されています。又、境内には仙石秀久、仙石政直(秀久の6男)の墓碑や岩村田藩4代主内藤正国の墓碑があります。又、江戸時代中期郷土史家である吉沢鶏山の墓所と句碑(籬など いふがくどさに 野菊かな)があります。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

【 西念寺:菩提者(仙石秀久) 】−仙石秀久は天文21年(1552)、西念寺仙石久盛の4男として生まれ、本来仙石家を継ぐ可能性が低かったのですが、3人の兄全てが次々と討死した為、養子先だった萩原家から呼び戻され宗家を相続しました。当初は斎藤龍興に従っていましたが、織田信長により斎藤家が滅ぶと信長に従い、羽柴秀吉の馬廻衆となりました。その後は秀吉古参の家臣として数々の戦に従軍し天正7年(1579)には茶臼山城主になるなど要職を果しました。天正10年(1982)の本能寺の変で信長が死去すると、秀吉に従った秀久は淡路島で明智光秀に与した諸氏を平定し功績を挙げています。賤ヶ岳の戦いでは主に四国の長宗我部元親の牽制に尽力し戦には破れたものの、牽制という意味では目的を果たし淡路洲本領5万石が与えられ、さらに秀吉の四国統一にも従軍し讃岐1国の国持大名に出世しています。

しかし、天正14年(1586)の秀吉の九州攻めでは四国勢の軍監として逸早く九州に着陣、豊臣軍本隊が到着するまで籠城に徹する秀吉の命が出たのにも係わらず、命令を無視して四国勢だけで戦端を開き、九州の島津方に大敗北を喫します。さらに、自軍の残存兵をまとめ上げ撤退しなければならないところ、小数の兵と共に讃岐へ逃亡するという愚挙を演じ、四国勢は大きな損失を出しました。秀吉の怒りはすさまじかったらしく、秀久は改易の上、高野山に追放となりました。天正18年(1590)の小田原の役の際、浪人となった旧家臣達を引連れて参陣、徳川家康の推挙もあり戦への参加が認められました。

秀久は派手な衣装を纏い、奇抜な行動を取ると同時に戦働きでも功を挙げ、小諸領5万石で復権を果しています。さらに、文禄元年(1592)の肥前名護屋城の築城や文禄3年(1594)の伏見城の築城などでも功を挙げ5万7千石となり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも東軍に与し領地の安堵が認められ初代小諸藩(藩庁:小諸城)の藩主に就任しています。慶長19年(1614)、武州国鴻巣で死去、享年63歳、戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」。墓碑は亡くなった場所である勝善寺、菩提寺である宝泉寺(後に上田の芳泉寺に改葬)、西念寺(佐久市)に建立されています。

【 西念寺:菩提者(内藤家) 】−三河内藤家(政次系)の内藤正友が元禄16年(1703)、信濃国佐久郡内(現在の長野県佐久市)1万6千石を与えられ岩村田藩(藩庁:岩村田城)を立藩し初代藩主となっています。正友は大坂定番などの要職を歴任し元々領していた1万石から6千石が加増された形で、2男正敬が家督を継いだ際、3男正直に1千石が分知され1万5千石となっています。4代正興は男子が生まれなかった事から肥前唐津藩主・水野忠鼎の四男・忠令(正国に改名)を婿養子として迎え、その正国も子供に恵まれず甥である水野正縄を養子にして6代藩主としています。正縄は老中として天保の改革を中心的に指導した水野忠邦の実弟であった事から幕政でも重用され日光祭礼奉行、大坂加番、大番頭、伏見奉行などの要職を歴任し安政5年(1858)城主格に格上げされています。7代正誠は日光祭礼奉行や、奏者番、寺社奉行などを歴任し戊辰戦争の際は当初立場を鮮明にしない事から明治新政府から謹慎を命じられています。その後は新政府軍に協力し北越戦争などに兵を送り出しています。西念寺は内藤家の領内菩提寺で境内には4代藩主内藤正国の墓碑が建立されています。

西念寺:写真

西念寺
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