新海三社神社(佐久市)概要: 新海三社神社は長野県佐久市田口に鎮座している神社です。創建年は不詳ですが境内には中御陵、東御陵、西御陵など古墳が点在していることから、古墳の埋葬者とされる豪族が聖地として神格化し氏神を奉斎する祭祀場が前身だったかも知れません。佐久地方を開拓した豪族の氏神は興波岐命とされ、同神とされる八県宿禰神は貞観10年(868)に正五位下を授けられている事から格式の高い神社として中央からも認識されていた事が窺えます。興波岐命は信濃国一之宮諏訪大社の祭神である健御名方命の御子神で、荒船大明神(上野国一之宮貫前神社の祭神)と契り生まれたとされ、佐久地方が諏訪大社が鎮座する諏訪地方と、貫前神社が鎮座する甘楽地方と挟まれている地域である事に起因していると思われます。新海三社神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されている英多神社の論社で江戸時代には長野県佐久市安原字英多沢に鎮座する英多神社と論争となり、新海三社神社側から見ると、英多=アガタ=大県=興波岐、説や境内周辺の地名に英田地畑が残り、近くで発見された鈴に「英田神社」の銘があった事などが理由となっています。
さらに、当時の佐久郡は三庄三十六郷の行政区間があり三庄である伴野庄・平賀庄・大井庄にはそれぞれ式内社として記載された英多神社、長倉神社、大伴神社が鎮座していましたが、室町時代にその内の長倉神社と大伴神社、英多神社の祭神に勧請合祀し合わせて祭った事で佐久郡三庄三十六郷の総社となり、三社が合祀した事に因み新海三社神社と呼ばれるようになったとされます。現在、新海三社神社境内に建立されている中本社には健御名方命、西本社には事代主命、東本社には興波岐命が祀られているのは上記の三社が合祀した為で、さらに中本社と西本社の間にある「御魂代石(延文3年:1353)」は諏訪湖と繋がり御神渡り神事の際は興波岐命が諏訪湖に降臨し父神である健御名方命と参会すると伝えられています。又、新海三社神社の祭神である興波岐命は当地域を開削した神である事から開(さく)神社と呼ばれた事が由来として「佐久」の地名が成ったとし、南北朝時代に編纂されて「諏訪大明神画詞」によると「新開之神」として紹介されています。
【 中世以降の新海三社神社 】-鎌倉時代に入ると鎌倉幕府初代将軍源頼朝が庇護し、頼朝が草津周辺に巻き狩りに訪れた際に源氏の祖神である誉田別命を祀るように指示し社殿の修復や社領の寄進を行ったと伝えられています。草津温泉(群馬県草津町)は源頼朝が巻き狩りをした際に発見し、案内役を務めた湯本氏が草津温泉の湯守に任ぜられたとし鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」に記載されていると云われていますが、実際はそのような記録が無い事から新海三社神社の伝承も真偽の程は確かではありません(長野県では北佐久郡御代田町に境内を構える真楽寺なども頼朝の伝説が伝えられています)。室町時代に入ると、同じく源氏の血筋である足利氏や武田氏、徳川氏が庇護し(誉田別命は西本社に相殿となっています)、特に武田信玄は永禄8年(1565)に上州攻略の要となる箕輪城(群馬県高崎市)攻めの際、新海三社神社に戦勝祈願文を奉納し見事勝利に導き天正年間(1573〜1593年)には社殿の修築を行っています。
江戸時代に入ると幕府や領内だった龍岡藩(藩庁:龍岡城五稜郭)主から庇護され造営費の一部負担や鉾、手水舎なが寄進されています。信仰の広がりもあり、海野宿の鎮守である白鳥神社の境内社である新海社や和田宿に鎮座している新海神社は当社の分霊が勧請されたものとされます。新海三社神社は古くから神仏習合し境内に隣接する神宮寺が祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により仏教色は一掃され、神宮寺は近隣に境内を移し新海山上宮寺として袂を分け、新海三社神社は県社に列しました(本地堂の仁王門(神門)と仁王像は上宮寺の境内に遷され仁王門として利用されています)。祭神 興波岐命(東本社)、健御名方命(中本社)、事代主命(西本社)、誉田別命(相殿)。
【 新海三社神社の社殿 】-新海三社神社の本殿は三棟あり、その内の東本社は室町時代に建てられたと推定される建物で一間社流造、桧皮葺、母屋木鼻や向拝木鼻の彫刻に時代の特徴がみられ大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。三重塔は新海三社神社の神宮寺の塔として永正12年(1515)建立されたと推定される建物で、明治時代初頭に発令された神仏分離令や廃仏毀釈などにも破却を免れました。三重塔は高さ20m、宝形屋根、こけら葺、方三間、和様を主体としながら禅宗様が混在し初重と二、三重の垂木の方向の違い等にそれが見られ室町時代の様式を残す貴重な建物として国指定重要文化財に指定されています(長野県で神社の境内に三重塔が現存するのは当社と大町市に鎮座する若一王子神社の2例しかなく貴重な存在です)。
新海三社神社の中本社は、江戸時代中期の17世紀末から18世紀初頭頃に造営されたもので(元禄12年:1699年の請負証文と、元禄13年:1700年の軒札有)、一間社流造、銅板葺、平入、木部朱塗り、彫刻部極彩色、棟梁は田野口村出身の佐兵衛。西本社は中本社と同年代、同規模ですが祭神として事代主命と誉田別命が相殿となっている為、二間社流造、桁行2間、梁間1間、銅板葺き、平入、正面2間向拝付き、木部朱塗り、彫刻部極彩色、扉が2カ所、棟梁は田野口村出身の佐兵衛。西本社と中本社は江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から平成14年(2002)に佐久市指定文化財に指定されています。
新海三社神社の文化財
・ 東本社−室町時代−一間社流造、桧皮葺−国指定重要文化財
・ 三重塔−永正12年−高20m、宝形、こけら葺、方三間−国指定重要文化財
・ 中本社−江戸時代中期−一間社流造、銅板葺−佐久市指定文化財
・ 西本社−江戸時代中期−二間社流造、銅板葺−佐久市指定文化財
・ 御魂代石−室町時代−石材、高さ約1m−佐久市指定文化財
・ 新海三社神社中世文書−天文21年(1552)武田家など−佐久市指定文化財
|