小諸城(懐古園): 城主・大手門・三の門

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概要・歴史・観光・見所
小諸城(懐古園)概要: 小諸城は平安時代後期に建てられたの始まりとされ、小諸城(懐古園)当初は酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城などと呼ばれ小室氏の館でした。小室氏は木曽義仲に組みした武将だったとされ、その後も長く当地を支配しましたが南北朝時代に南朝側として行動した事で没落します。長享元年(1487)に信濃守護小笠原氏の一族で北朝側に付いた国人領主大井光忠が台頭し小室氏の館を大改修し城郭として整備、光為がさらに拡張しました。戦国時代に入ると武田信玄の信濃侵攻により小諸城は落城、当地は交通の要衝で当面の敵である村上氏攻略の重要拠点として重要視され軍師である山本勘助が自ら縄張りしたされ、その後は武田家の重臣が城主を歴任しています。武田家が滅亡すると小諸城は織田家家臣滝川一益の管理下に入り、本能寺の変で信長が倒れると一益は自領に引き上げた為、徳川領となりました。小諸城は徳川領と北条領の境に近く、軍事的拠点でもあった為、度々両者の攻防戦が繰り広げられました。

天正18年(1590)小田原の役で北条家が滅び徳川家が関東に移封になると豊臣秀吉の家臣仙石秀久が5万石で小諸城に封ぜられ、現在の小諸城の元になる近代的な城郭へ整備し、石垣や3層の天守閣(寛永3年:1626年に落雷で焼失)が建てられました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは秀久は東軍(徳川方)として行動し徳川秀忠の上田城(上田市)攻略戦の本陣として小諸城は利用されました。江戸時代に入ると一時徳川家光の弟の忠長が城主となりますが、その後は2〜5万石程度の譜代大名(松平憲良→青山宗俊→酒井忠能→西尾忠成→石川松平家)が短期間に城主が代わり藩政が安定しませんでした。元禄15年(1702年)に与板藩(新潟県長岡市与板町)より牧野康重が1万5千石で小諸城に入るとその後の城主が安定し、明治維新まで10代牧野氏が続きます。明治以降、小諸城は廃城となり明治13年(1880年)には民間に払い下げられ城内は「懐古園」として整備されました。

小諸城の縄張り: 小諸城は千曲川によって削られた深い谷を空堀とした要害堅固の城で城下町から見て低い位置に築城されているのも特徴の1つです。千曲川から見ると比高約60mに築かれた連郭式平山城で東西約700m、南北約150m、大きく西端が本丸、中央が二の丸、東端が三の丸で構成されていました。本丸と二の丸は崖地以外は石垣が設けられ、本丸と二の丸の間は巨大な空堀が横切り主要の出入口は枡形の櫓門、本丸北西隅には三層の天守閣が構えられていました。本丸は約5〜6mの高石垣で囲われ内部には藩主の御殿があり現在は懐古神社が建立されています。二の丸正面と南東隅、三の門左手に櫓があり、西側には北の丸(食料庫・隠居所)、南丸(弓道場)があり二の門を守る役割がりました。三の丸には小諸藩藩庁の他、大手門、太鼓櫓、御厩、鹿嶋神社、泰安寺(牧野氏の菩提寺)、明倫堂(藩校)などが設けられました。現在の小諸城の遺構としては石垣や空掘、郭の形状の他、大手門(慶長13年・国指定重要文化財)や三之門(明和2年・国指定重要文化財)が現存し、移築城門として足柄門と黒門が寺院の山門として移築されています。小諸城は平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。

【 小諸城:大手門 】-大手門(別称:瓦門)は慶長17年(1612)、当時の小諸藩主仙石秀久によって小諸城の正門として建てられたものです。木造2階建、入母屋、本瓦葺、櫓門形式、下層部桁行6.5間、梁間2.5間、上層部桁行7間、梁間3間、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。2階には東西2室の畳敷きの部屋が配され座敷のようになっています。文化9年(1812)に改修され三州藤井出身の藤原氏によって瓦の葺き換えが行われています。明治4年(1871)の廃藩置県により小諸城は廃城となり、大手門も民間に払い下げとなりました。一時料亭となりましたが、その後は小諸義塾の施設として再利用され明治29年(1896)に新塾舎が建設されるまで教室となっています。小諸城大手門は江戸時代初期の大型櫓門の遺構として大変貴重な事から平成5年(1993)12月9日、国指定重要文化財に指定されています。

【 小諸城:三の門 】-近世の小諸城は元和元年(1615)に小諸藩主仙石忠政によって完成しますが、江戸時代中期の寛保2年(1742)、千曲川流域で大洪水が発生し所謂「戌の満水」によって小諸城は大きな被害を被り、三の門も大破しました。現在の三の門は明和2年(1765)前後に再建されたもので、木造2階建て、2層櫓門、寄棟、桟瓦葺き、上層部両側には袖塀附(袖塀には矢狭間・鉄砲狭間付)、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、桁行5間、梁間2間、格子戸、下層部は三間一戸、向かって右側に潜戸付、桁行3間。明治4年(1871)の廃藩置県により小諸藩が廃藩になると小諸城も廃城となり、多くの施設が破却、払い下げとなりましたが三の門は維持されました。小諸城跡が旧小諸藩士により「懐古園」として整備されると正門となりました。三の門に掲げられている「懐古園」の扁額は徳川宗家16代目当主徳川家達の筆とされます。小諸城三の門は江戸時代中期の大型櫓門の遺構として大変貴重な事から平成5年(1993)12月9日:国指定重要文化財

【 小諸城:武器蔵 】-小諸城の城跡の一角に武器庫が移築保存されています。小諸城の案内板によると「 この建物は文化14年(1817)藩主牧野康長公が建てたものです。廃藩後取りこわされ八幡村依田仙右衛門氏宅へ移し更に東京へ移築し使用していたものを復原するため当時の外観など原形に近いものを建ようとして再建したものです。」とあります。案内板の言い回しが微妙な為、どの程度改変されたのかは不詳、移築される毎に解体され、その用材を利用して現地で組み立てたような印象を受けます。現在の小諸城武器蔵は土蔵2階建て、切妻、桟瓦葺き、外壁下層部は下見板張り縦押縁押え、上層部は大壁造り白漆喰仕上げ。

【 小諸城:足柄門 】-光岳寺山門は小諸城の足柄門として建てられたもので当初は慶長元年(1596)に仙石秀久によって建てられましたが寛保2年(1742)の暴風雨により千曲川が氾濫し流出し明和2年(1756)に再建されました。当初は小諸城の三之丸の大手門に西側に位置していましたが、明治4年(1871)の廃藩置県により小諸城が廃城になると明治5年(1872)光岳寺に払い下げとなり山門として現在地に移築されました。足柄門は切妻、桟瓦葺、一間一戸、高麗門形式、高麗門とは本柱の内側に控柱を設けて合計4本の柱で支える門形式で、本柱と控柱を冠木で繋ぎ屋根を架ける特異な形状をもっています。高麗門形式は、屋根の奥行を薄く出来る事が出来た為、城内からの視覚を遮る面積が少なく城門にも好んで採用されました。

小諸城の遺構
・ 大手門−慶長13年−櫓門、入母屋、本瓦葺、桁行5間−国指定重要文化財
・ 三之門−明和2年−櫓門、寄棟、桟瓦葺、「懐古園」扁額−国重文財
・ 足柄門(光岳寺山門)−明和2年−切妻、桟瓦葺、高麗門
・ 黒門(正眼院山門)−江戸時代−切妻、桟瓦葺、薬医門
・ 小諸城本丸御殿書院(東御市の民家)−詳細不詳
・ 銭蔵−享保11年−木造2階建、切妻、桟瓦葺−小諸市指定文化財
・ 武器庫−文化14年−木造2階建、塗屋造、切妻、桟瓦葺

小諸城:写真

小諸城:三の門 小諸城:三の門「懐古園」扁額 小諸城:二の丸石垣 小諸城:二の門枡形 小諸城:二の丸 小諸城:番所跡
小諸城:南丸 小諸城:黒門橋 小諸城:懐古園稲荷神社 小諸城:お駕籠台 小諸城:本丸枡形(黒門) 小諸城:懐古神社
小諸城:小諸領境界石標 小諸城:本丸石垣1 小諸城:天守台 小諸城:本丸石塁 小諸城:本丸石垣2 小諸城:本丸南西虎口
小諸城:本丸石垣3 小諸城:馬場 小諸城:天守台石垣 小諸城:武器庫 小諸城:地獄谷 小諸城:北谷


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