戸隠神社

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概要・歴史・観光・見所
戸隠神社(長野市)概要: 戸隠神社の創建は第八代孝元天皇の五年(紀元前210年)、天照大神が隠れた天岩戸を開け、岩戸をこの地まで投げ飛ばした(戸隠山となった。)天手力雄命を勧請したのが始まりと伝えられています。一方、戸隠神社の御神体である戸隠山は水源地だった事から古代人から神聖視されていたと推測され信仰の初源は素朴な自然崇拝だったかも知れません。戸隠神社奥社に隣接する九頭龍社に祭られている九頭竜大神は水神である為、自然崇拝から形ある地元神として発展したとも考えられます。その後、天武天皇13年(684)に三野王(美努王)が信濃の地図を製作する為に役人を派遣し、それを受けて天武天皇14年(685)に朝廷から3人の朝臣が派遣され仮の宮を造営、持統天皇5年(691)に水内の神を祭り犀角牙笏を戸隠神社に奉納したそうです(現存する象牙製の牙笏は正倉院に3枚、法隆寺、道明寺天満宮、戸隠神社が各1枚、計6枚しか確認されておらず、極めて身分が高い人物が使用したと推定されています。国指定重要文化財)。嘉祥2年(849)に隣接する飯縄山を開山した学問(行者)によって新たに戸隠山顕光寺が開山されると神仏混合し多くの修験僧が修業に訪れる全国有数の聖地となりました。

地名「戸隠」が明確になるのは平安時代後期頃で、能因法師が編纂した歌学書である「能因歌枕」に信濃国歌枕として「さかさま川・きはふの里・ちくま河(千曲川)・さらしな(更科(級)山)・あふちの関・はゝ木々・おはすて山(姨捨山)・まつかわ・うらの里・きそのかけはし(木曽の棧)・もち月(望月の牧)・あさまのたけ(浅間山)・こまかたけ(駒ヶ岳)・とかくし(戸隠山)・そのはら(園原)」を挙げています。能因法師の死没年は永承5年(1050)、又は康平元年(1058)とされる為、少なくともこれ以前に歌枕になる程著名な場所だった事が窺えます。

平安時代末期の治承年間(1177〜1181年)に後白河法皇によって編纂された今様歌謡の集成である「梁塵秘抄」には「四方の靈験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。」と記され、当時の日本の代表的な霊験の高い場所として、信濃の戸隠神社が伊豆の走井(静岡県熱海市にある伊豆山権現及び走湯山権現)、富士山、大山(鳥取県大山町・琴浦町・江府町にある霊山で大神山神社と大山寺が境内を構えています)、成相寺(京都府宮津市)、最御崎寺(高知県室戸市室戸岬町)、志度寺(香川県さぬき市志度)と共に挙げられている事から平安時代末期には日本を代表する霊場として知られていた事が窺えます。

これらの客観的な資料により戸隠神社の成立年は不詳なものの平安時代中期には中央にも聞こえる存在となり、平安時代末期には大きく繁栄し一大霊場だった事が判ります。その後の資料では康保3年(966)又は永保3年(1083)に信濃戸隠山の釈長明が火定(修行者が自ら焼身死することによって入定すること)が記され、平安時代後期から末期時点では戸隠神社は既に神仏習合となり、社僧又は修験僧が祭祀を司っていた事が窺えます。鎌倉時代後期には戸隠神社の最古の由緒が成立し、現在伝わる伝説や伝承が次第に造り上げられています。

社宝から推察すると奈良時代から平安時代初期のものされる「牙笏」を所有しています。牙笏はアフリカ象の牙から制作されたもので、全長34.8cm、上部幅4.5cm、下部幅4.72cm、上部厚さ1.15cm、下部厚さ1.2cm、同型のものは正倉院(奈良県奈良市雑司町)に3枚、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内)に1枚、河内道明寺天満宮(大阪府藤井寺市道明寺)に1枚しかなく貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。由緒によると持統天皇5年(691)に賜ったとされますが、制作年代が奈良時代から平安時代初期である事から戸隠神社にはそれ以降に渡った事になります。

戸隠神社は鎌倉時代から室町時代にかけて戸隠十三谷三千坊と呼ばれる程に隆盛し比叡山(滋賀県大津市坂本)、高野山(和歌山県伊都郡高野町)と共に「三千坊三山」に数えられました。本当に戸隠山に三千の坊舎があったのかは判りませんが、全国には青森県の津軽三千坊や、新潟県の山寺三千坊などがあり、一見して数えきれない程坊舎がある場合には例えとして「三千坊」を称したに過ぎないのかも知れません。その他にも小菅神社(長野県飯山市)、飯綱神社(長野県長野市富田)と共に北信濃三大修験場、現在の武水別神社(長野県千曲市)、善光寺(長野県長野市)、光前寺(長野県駒ケ根市)、津金寺(長野県北佐久郡立科町)と共に天台宗信濃五山に数えられました。

戦国時代に入り、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主、甲斐国守護)が北信濃まで侵攻すると、当地が越後の上杉領と甲斐の武田家領の境界近くにあった為、両陣営からの囲い込みがあり、永禄元年(1558)には武田信玄による戦勝祈願の願状が奉納され永禄4年(1561)の第四次川中島合戦に及んでいます(現在、戸隠神社では武田信玄面頬とされるものが伝わっています)。しかし、永禄7年(1564)に発生した第五次川中島合戦の兵火(上杉謙信の戸隠攻め)により戸隠山勧修院顕光寺は全山焼失し、戸隠の衆徒70余名は筏ヶ峰(現在の長野県上水内郡小川村)に密かに逃れ信仰を続けました。筏ヶ峰時代には武田家に従った小河荘(小川庄)の領主である大日方氏が庇護し、小川の地は後世まで「坊」と呼ばれました。天正10年(1582)に武田家が滅び、一端支配者となった織田信長(安土城の城主)も本能寺の変に倒れた為、北信濃は越後の上杉景勝が支配するようになり(大日方氏は上杉方と小笠原氏方に分かれ、小川の地にあった一族は上杉方に属したとされます)、文禄3年(1594)その景勝の支援を受け、戸隠山の再興が図られました。

慶長3年(1598)に上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると庇護者を失いますが、江戸時代に入ると幕府から庇護され、1千石の朱印状を賜ると共に東叡山寛永寺(東京都台東区上野桜木)の末寺に組み込まれ、寛永寺や日光輪王寺(栃木県日光市)から役人や役僧が派遣され「戸隠山法度」が定められるなど不自由な体制となりました。一方、小川地区の代官となった小川氏とは関係が深く親交があったようです。仏教色も強くなり天台宗の祭祀が行われ戸隠神社の別当職であった顕光寺の12院坊が中社(当時は中院)と宝光社(当時は宝光院)に配され門前町が形成されました。明治時代に入ると神仏分離令と廃仏希釈により仏式が廃され多くの仏像や法具を手放し戸隠神社として独立しています。

現在戸隠神社は奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社から構成され中社と宝光社周辺は宿坊街が見られ当時の名残を見ることが出来ます。平安時代から続く修験信仰の旧態が今なお色濃く残り戸隠五社を含む周囲一帯が"戸隠神社信仰遺跡"として昭和54年(1979)に長野県指定史跡に指定されています。現在、戸隠神社奥社に続く参道には神仏習合時代の仁王門だった思われる随神門(寄棟、茅葺、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り、板張り、朱塗り仕上げ、左右に随神安置)が残され、当時の名残が見られます。

戸隠神社の御祭神と御利益
・ 奥社:天手力雄命−開運・心願成就・五穀豊熟など
・ 中社:天八意思兼命−学業成就・商売繁盛・開運・家内安全など
・ 宝光社:天表春命−学業成就・技芸・安産など
・ 九頭龍社:九頭龍大神−水難・雨乞い・虫歯・縁結など
・ 火之御子社:天鈿女命−舞楽芸能・縁結・火防など

戸隠神社の文化財
・ 法華経残欠4巻(戸隠切)−平安時代:藤原定信筆−国指定重要文化財
・ 牙笏−平安時代初期−象牙製−国指定重要文化財
・ 戸隠神社太々神楽−長野市指定無形民俗文化財
・ 戸隠神社の三本スギ−推定樹齢800年−中社境内−長野市指定天然記念物
・ 聚長家(宿坊)−文化12年−寄棟、茅葺、唐破風向拝−国登録有形文化財
・ 戸隠神社信仰遺跡−旧奥社・旧中社・旧宝光社境内−長野県指定史跡
・ 戸隠神社奥社社叢−参道:推定樹齢400年の杉並木−長野県指定天然記念物

戸隠神社・写真

戸隠神社

戸隠神社:境内・見所

奥社
戸隠神社:奥社
奥社
中社
戸隠神社:中社
中社
宝光社
戸隠神社:宝光社
宝光社
九頭竜社
戸隠神社:九頭竜社
九頭竜社
火之御子社
戸隠神社:火之御子社
火之御子社
宣澄社
戸隠神社:宣澄社
宣澄社
 
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