長野県・町並み

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稲荷山宿・町並み:長野県千曲市稲荷山
稲荷山宿:長野県千曲市稲荷山 稲荷山宿は天正10年(1582)に上杉景勝が築城した稲荷山城の城下町として整備された町です(稲荷山城の築城年、築城者には諸説有り)。江戸時代に入り善光寺西街道(北国西街道)が開削されると宿場町として整備され、谷街道(松代道)の分岐点でもあった為、物資の集積場、中継地として大きく発展しました。稲荷山宿は善光寺西街道、谷街道の宿場町のなかでは最もと繁栄し、江戸時代後期になると繭や生糸・絹織物などを取り扱う呉服問屋が軒を連ねるようになり、明治時代初期には北信濃の最大の商業都市となり数多くの金融機関なども進出しました。現在でも当時の店蔵や土蔵、町屋建築が軒を連ね、往時の町並みが残されています。稲荷山宿は「商人町」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
麻績宿・町並み:長野県東筑摩郡麻績村
麻績宿:長野県東筑摩郡麻績村 麻績宿の地は地名から麻績部(麻布を織る職業を生業とした一族)が住んでいた地域で、交通の要衝だった事から律令制下で開削された東山道の麻績駅(近世街道制度では宿駅)が設けられ重要視されました。平安時代末期になると伊勢神宮内宮の荘園(麻績御厨)となり守護神として麻績神明宮が創建されています。中世に入ると麻績服部氏が支配し居城である麻績城の城下町として整備されています。江戸時代に入ると善光寺西街道(北国西街道)の宿場町として整備され、麻績宿には本陣や問屋、旅籠などの施設が設置され繁栄しました。現在でも雰囲気のある町並みが残されています。
松本宿・町並み:長野県松本市
松本宿:長野県松本市 ・松本地区は古くから信濃国(現在の長野県)の行政の中心になった地域で、奈良時代から平安時代にかけては信濃国府が置かれました。南北朝時代には松本市郊外にある浅間温泉に浅間宿が置かれ、信濃国司が政務を司りました。室町時代以降に信濃守護職を担った小笠原氏は林城を居城として長く信濃を支配しましたが、戦国時代に武田家の信濃侵攻により一時没落し松本の地を離れています。その後、松本の中心は林城から深志城(後の松本城)に移り、天正10年(1582)に武田勝頼と織田信長が相次いで倒れると、深志城を廻り激しい争奪戦が行われています。豊臣家の時代には家臣である石川家が城主となり、名称を松本城に改め、近世的な城郭へと大改修され現在残る大天守閣も造営されます。江戸時代に入ると松本藩が立藩し、松本城は名実共に松本藩の中心施設となりました。松本城の城下町には多くの家臣が武家屋敷に居を構えた大消費地となった為、松本城を起点として、糸魚川(新潟県糸魚川市)を結ぶ千国街道や、善光寺と松本城、中山道洗馬宿(長野県塩尻市)とを結ぶ善光寺西街道、松本城と塩尻宿(長野県塩尻市)とを結ぶ五千石街道、松本城と上田城(長野県上田市)を結ぶ保福寺街道、松本城と飛騨地方(岐阜県)とを結ぶ野麦街道などが分岐し、多くの物資と人が行き来しました。
洗馬宿・町並み:長野県塩尻市洗馬
洗馬宿:長野県塩尻市洗馬 ・洗馬宿に程近い「邂逅の清水」は平安時代末期に、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家打倒を呼び掛けた「以仁王の令旨」に呼応した木曽義仲が旗揚げした際、義仲を密かに匿った中原兼平の子供で義仲四天王に数えられた今井兼平と落ち合った場所とされます。地名は義仲が「邂逅の清水」で愛馬を洗った事から「洗馬」と呼ばれるようになったとも云われています。慶長19年(1614)に中山道の経路変更に伴い宿場町に指定され、改めて町割りされ本陣や脇本陣などが指名されています。又、洗馬宿は中山道と善光寺西街道(北国西街道)との分岐点でもあり、中山道を京都側から歩行した場合、善光寺(長野県長野市)に最短距離で結んでいた事から善光寺詣で参拝者は洗馬宿を利用しました。
小諸宿・町並み:長野県小諸市
小諸宿:長野県小諸市 小諸城は室町時代に大井氏の居館として設けられた館を前身としています。戦国時代に武田信玄が侵攻すると佐久地方の戦略的拠点として整備され、一説によると小諸城の拡張工事に際しては、武田家の軍師として知られる山本勘助が自ら縄張りしたとも云われています。その後は武田家の有力家臣が小諸城の城代として配されてきましたが、天正10年(1582)に武田勝頼が自刃すると、織田家家臣の滝川一益の支配下に入ります。しかし、同年、織田信長が本能寺の変により明智光秀に攻められ自刃、これにより後ろ盾を失った滝川一益は小田原北条氏との神流川の戦いでも敗れた為、小諸城を放棄して自国に引き上げます。代わって小諸城は武田家から徳川家に転じた依田信蕃が入ります。天正18年(1590)徳川家康の関東移封に伴い、小諸城には豊臣家の家臣仙石秀久が入り、城郭の近世化が図られ石垣や櫓などが設けられています。江戸時代に入ると小諸藩が立藩、小諸城には藩庁と藩主居館が整備され、領内の中心施設として重要視されました。江戸時代前期は短期間で藩主が交代し、元禄15年(1702)に牧野康重が小諸藩に入封すると、以後、牧野家が藩主を歴任しています。小諸城の城下町は北国街道の宿場町でもあり、現在も小諸宿本陣小諸宿脇本陣の遺構が残され、往時の町並みが僅かに残されています。
上田宿・町並み:長野県上田市
上田宿:長野県上田市 ・上田市周辺は古代、松本市周辺に国府が遷されるまで信濃国の中心地だった地域で、古代の官道である東山道が通り、国分寺や国分尼寺なども設けらていました。国府が遷った後は当地の行政の中心は塩田平となりましたが、戦国時代に真田昌幸が上田城を築くと周辺から住民が集められ上田が再び中心地となりました。真田家は隣接する徳川家との折り合いが悪く、第一次上田合戦、第二次上田合戦と2度の合戦に及び、何れも上田城で徳川勢を退け天下に武勇を馳せています。真田昌幸・幸村父子が改易になると上田城は廃城となり破却されましたが、元和8年(1622)に真田信之が松代城に移封となり、寛永3年(1626)に仙石忠政が上田藩に入封すると本格的な整備が行われています。宝永3年(1706)に仙石氏が移封となり、代わって松平忠周が入封すると、以後、松平家が上田藩の藩主を歴任しています。上田城の城下町は北国街道の宿場町でもあり、柳町には現在でも町屋建築が軒を連ね良好な町並みが残されています。又、松本城と上田城を結ぶ保福寺街道の分岐点でもあり多くの物資や旅人が行き交いました。
海野宿・町並み:長野県東御市海野
海野宿:長野県東御市海野 海野宿は何時頃発生したのかは不詳ですが、鎮守である白鳥神社日本武尊が海野の地に滞在した事を記念して創建された古社で、境内は治承5年(1181)に木曽義仲が挙兵した地としても知られています。その後は木曽義仲の家臣とされる海野氏が長く当地を支配し、海野城の城下町として整備されました。戦国時代に入ると海野氏の後裔とされる真田氏が本拠を上田城に移した為、海野宿周辺の集落が上田城の城下町に移され衰微しましたが、江戸時代に入り北国街道が整備されると宿場町として整備されます。当初は田中宿の枝宿だったものの、大洪水で田中宿が大きな被害を受けると正式な宿場町に格上げとなり海野宿には本陣や脇本陣、問屋なども設置され、復興した田中宿を上回る繁栄を見せました。江戸時代後期になると養蚕の一大先産地となり明治時代以降は大きく発展しました。特に2階や3階や屋根裏が養蚕場となった為、建物の上部の改修や増築が進み現在のような独特な町屋建築(長野県)が見れるようになりました。特に養蚕で財を成した家には「うだつ」を掲げる町屋も多くなり現在でもその名残を見る事が出来ます。海野宿は国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
千国宿・町並み:長野県小谷村千国
千国宿:長野県小谷村千国 千国宿は松本城の城下町と北陸道の宿場町で糸魚川陣屋の陣屋町を結んだ千国街道の宿場町として整備されました。千国の地は藩境でもあった為、松本藩は千国口留番所(関所)を設置して人や荷物の管理を行いました。又、在郷町としても機能し、周辺地域の中心として年末には市が開かれ多くの人達が集まりました。千国街道の街道沿いには現在でも茅葺屋根の古民家が点在しています(訪れた当時)。
奈良井宿・町並み:長野県塩尻市奈良井
奈良井宿 ○−天文元年(1532)に木曽義仲の後裔を自称する木曽義在奈良井宿に境内を構える専念寺を開いている事から、戦国時代には奈良井宿周辺が木曽氏の勢力が及んでいたと思われます。木曽氏は木曽義仲の後裔を自称していますが、当初の勢力圏は限定的で義元・義在・義康の3代で大きく版図を広げたとされますが明瞭な資料も少なく良く判っていません。天文2年(1533)、義在は領内の街道(木曽路の前身)を整備し、奈良井宿など交通の要衝には宿場町を設置し、本城である福島城(当初は須原城)の支城を築き、一族や有力家臣を配したと思われ、奈良井城には子供である、奈良井義高を配しました。ただし、奈良井氏の出生には諸説あり詳細は不詳、木曽氏とは一定の距離があり、逸早く武田家に転じたと記載されている資料もある為、一概に木曽氏の一族とは言えない点もあります。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が幕府により開削されると奈良井宿は宿場町に指定され本陣や脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。奈良井宿の南端には中山道(木曽路)の難所として知られる鳥居峠を控えていた事から多くの旅人や商人が休息や、宿泊で利用し職人も数多く住んでいた事から宿場の規模は木曽路11宿の最大級でしたが、正式な旅籠は限定的です。現在でも伝統的町屋建築が数多く残され良好な町並みを形成しています。奈良井宿は国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
木曽平沢・町並み:長野県塩尻市木曽平沢
木曽平沢 ○−木曽平沢は江戸時代成立前後に中山道(木曽路)沿いに形勢された集落です。奈良井宿の枝宿だった為、正式な宿場町とは異なり本陣や脇本陣、旅籠、問屋などの公共性の高い施設は設けられませんでしたが、木曽産の木材を利用した工芸品の生産が盛んになった為、職人が数多く住んだ為、一見すると宿場町のような町並みが形成されました。特に木曽谷の気候風土と良質な木材と漆の材料が比較的容易に手に入った事から漆器生産が盛んになり、江戸時代後期には一大生産地として「木曽漆器」が全国的にも知名度が上がりました。現在でも一般的な町屋建築とは異なり、漆器製作に有利な独特の平面構成や建物配置、仕上げ等が見られる建物が軒を連ねる伝統的な町並みを見る事が出来ます。木曽平沢は「漆工町」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
妻籠宿・町並み:長野県南木曽町妻籠
妻籠宿 ○−妻籠宿は交通の要衝として重要視され、室町時代には木曽氏により妻籠城が築かれその城下町として町割されたと思われます。天文2年(1533)、木曽義在によって木曽路(中山道)の前身となる街道が整備された際、宿場町に指定されています。小牧長久手の戦い(豊臣秀吉と徳川家康との戦い。木曽氏は豊臣家に与した為、徳川方の大軍が木曽谷に侵攻し、それを妻籠城で食い止めたた戦い。)の際には妻籠城も戦場となった為、妻籠宿も大きな被害があったと思われます。慶長6年(1601)に中山道(木曽路)が開削されると改めて宿場町として整備され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠などの公共施設が設置されています。又、木曽路(中山道)の妻籠宿と三州街道の飯田宿を結ぶ大平街道(飯田街道)が分岐した為、妻籠宿では多くの旅人や商人達が利用しました。現在でも脇本陣奥谷(国指定重要文化財)や上嵯峨屋(南木曽町指定文化財)、下嵯峨屋(南木曽町指定文化財)、熊谷家住宅(南木曽町指定文化財)などの伝統的な町屋建築が数多く残され、優れた町並みが続いています。妻籠宿は「宿場町」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
別所温泉・町並み:長野県上田市
別所温泉:長野県上田市 別所温泉は景行天皇の時代に日本武尊が発見したという温泉街です。現在の上田市周辺は信濃国府や国分寺、国分尼寺が設置された信濃国の中心だった事から比較的早くから開発進み、日本書紀に記載された「束間温湯」が別所温泉だったという説もあります。さらに、平安時代に清少納言によって編纂された「枕草子」に「湯は七久里、有馬の湯、玉造の湯」と当時日本の著名な温泉(日本三名泉)を記述があり、その内の「七久里の湯」が別所温泉とされます。これは、日本武尊が別所温泉を発見した際、7つの源泉を見つけ、7つの効能(苦難)に効く事から7苦難の湯と呼ばれ、それが転じて七久里の湯と呼ばれていたとの伝承が起因としています。鎌倉時代中期には鎌倉幕府執権の北条氏の一族が塩田平に配され、塩田北条氏として当地域を開発し、安楽寺三重塔(国宝)や北向観音生島足島神社などの造営や改修、塩田城の築城などを行なっています。又、順徳天皇が編纂した「八雲御抄」の中で日本の温泉についての記述があり、その中でも名取御湯、三函御湯(又は犬養御湯)、信濃御湯(別所温泉の事)の3つの温泉だけが「御」の字が付けらていた事から「日本三御湯」に数えられました。江戸時代に入ると上田藩が保護し、藩主や家臣達も湯治場として利用しています。
青鬼集落・町並み:長野県白馬村青鬼
青鬼集落:長野県白馬村青鬼 青鬼集落(白馬村)が位置頃発生したのかは不詳ですが鎮守である青鬼神社は大同元年(806)に善鬼大明神を祀ったのを起源としている事から少なくとも平安時代には集落が形成していたと思われます。集落内には千国街道から善光寺を結ぶ善光道が通過していた事から多くの往来があったと思われます。傾斜地に位置していた事から地形を利用した棚田が設けられ、生産地(棚田)と居住区(集落)が近接している珍し集落構成をしています。現在でも青鬼集落は茅葺屋根(鉄板覆い)の古民家が数多く残され良好な山村集落の景観を維持しています。青鬼集落は「山村集落」として国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
小野宿・町並み:長野県伊那郡辰野町小野
小野宿:長野県伊那郡辰野町小野 小野宿は交通の要衝で、江戸時代当初は中山道と三州街道(伊那街道)が交差する宿場町として重要視されていました。その後、中山道は塩尻宿方面に変更になった為、三州街道の宿場町のみとなりました。現在でも小野宿には本棟造りの町屋建築が軒を連ねる独特の町並みが残されています。宿場外れに鎮座している小野神社矢彦神社は信濃国二宮の格式を得ています。
渋温泉・町並み:長野県下高井郡山ノ内町渋
渋温泉:長野県下高井郡山ノ内町渋 渋温泉は奈良時代の高僧である行基菩薩によって発見されたという古湯です。温泉街の最奥地に位置する温泉寺は嘉元3年(1305)、虎関師練国師により創建されている事から少なくとも鎌倉時代には存在していたと思われます。戦国時代には武田信玄が傷ついた家臣達の湯治場として庇護し、温泉寺にも寺領の安堵や武田家縁の品々を寄進しています。江戸時代に入ると北国街道と草津温泉を結ぶ草津道の宿場町となり、湯治客と共に、旅人や商人達が利用して温泉街も賑わいました。文人墨客にも愛され、佐久間象山、小林一茶、葛飾北斎などが利用しています。現在でも風情ある温泉街の町並みが残されています。
野沢温泉・町並み:長野県野沢温泉村
野沢温泉:長野県野沢温泉村 野沢温泉は奈良時代の高僧である行基菩薩が発見したとも、狩人が傷ついた熊が湯浴びをして癒していたのを発見したとも云われてます。現在も周辺には犬飼の地名が残っている事から律令制での犬養部(犬を飼養・使用することを「業」とした一族)が住んでいた地域で犬養湯と呼ばれていたと推定されています。鎌倉時代に順徳天皇が制作した「八雲御抄」の中で日本の温泉についての記述があり、その中でも名取御湯、犬養御湯(野沢温泉)、信濃御湯(別所温泉の事)の3つの温泉だけが「御」の字が付けらていた事から日本三御湯として認知されていました。江戸時代に入ると飯山藩が温泉街を整備し藩主の御殿湯が設けられました。野沢温泉は住民と温泉とが生活に密接し、現在でも13箇所の共同温泉(外湯)が湯仲間と呼ばれる住民達で構成される組織に管理運営されています。
小布施宿・町並み:上高井郡小布施町
小布施宿:上高井郡小布施町 小布施町周辺は平安時代に高井野牧、東条荘などの荘園が点在していた地域で、元暦元年(1184)には平繁雅が東條庄内高井郡狩田郷領主職に復権しています。戦国時代に入ると高梨氏が支配し、周辺には複数の山城が築かれ台頭しますが、武田信玄の信濃侵攻により軋轢を受けると越後の上杉家に助けを求め次第に服従する事になります。慶長3年(1598)に上杉景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると高梨氏も随行し当地を離れています。江戸時代初期には豊臣家を見限り関ヶ原の戦いで東軍に与して広島藩50万石の大大名となった福島正則が幕府に無断で広島城を改修した罪により中島藩(高井野藩)4万石(後に2万石)で移封となり当地で死去しています。小布施に境内を構える岩松院は福島正則の菩提寺とされ境内には正則の霊廟が建立されています。又、小布施宿は谷街道(松代道)の宿場町、千曲川舟運の拠点として物資の集積場、中継地として経済的に発展し多くの豪商を輩出しています。江戸時代後期にはそうした豪商が小林一茶や葛飾北斎を招いた為、小布施では彼らの作品が残されました。現在でも谷街道(松代道)の街道沿いには町屋が点在し、それらを利用して観光地化されています。
下諏訪宿・町並み:長野県諏訪郡下諏訪町
下諏訪宿:長野県諏訪郡下諏訪町 下諏訪宿の地は諏訪大社下社秋宮の門前町だった町です。諏訪大社は延喜式神名帳に名神大社として記載され、信濃国一宮でもあった事から広く信仰され、特に祭神である建御名方神が武神だった事から大名家や武士などから崇敬庇護されました。江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町として発展し、特に中山道の難所として知られた和田峠を控え、甲州街道との分岐点だった事から多くの大名、旅人、商人からも利用されました。又、宿場内は古くから源泉が湧き出し温泉地としても知られいた事から湯治場としても賑わいました。
和田宿・町並み:小県郡長和町和田
和田宿:小県郡長和町和田 和田宿と下諏訪宿との間には中山道最大の難所である和田峠を控えていた事から、中山道を利用する大名や旅人、物資の運搬業者は和田宿で宿泊する事を常としました。特に冬季は和田峠で遭難する人も多かった事から峠の途中には「西餅屋(下諏訪宿側)」、「東餅屋(和田宿側)」、「接待(和田宿側)」が設けられ利用者の便宜を図りました。和田宿は江戸時代末期の火災で殆どの建物が焼失しましたが、公武合体運動により皇女和宮が中山道を利用し江戸城まで下向する事になり、急遽再建されています。現在も比較的当時に建てられた町屋建築が残され、街道沿いは国指定史跡に指定されています。
小田井宿・町並み:長野県北佐久郡御代田町
小田井宿:長野県北佐久郡御代田町 小田井宿は北国街道と中山道の分岐点がある追分宿と、岩村田藩の藩庁である岩村田陣屋(幕末期に藩主内藤家が城主格になった為に岩村田城を築城)が設けられた岩村田宿との中間に位置する宿場町で、両宿場町に比べると小田井宿は小規模だったとされます。追分宿には正式に遊女が認められた事で歓楽街的な要素が強かった事から小田井宿には姫君や側女などの女性達の利用する例が多く「姫の宿」とも呼ばれました。
飯田宿・町並み:長野県飯田市
飯田宿:長野県飯田市 ・飯田宿は三州街道と、中山道(木曽路)の宿場町である妻籠宿とを結ぶ大平街道や、太平洋側に抜ける秋葉街道・遠州街道の分岐点として重要視された町です。鎌倉時代には当地に配された坂西長由が飯田城の前身となる居館が設けられました。戦国時代に入り武田家の支配下に入ると、当地が徳川領と接していた事から軍事的拠点として飯田城が拡張整備されました。天正10年(1582)に武田勝頼が自刃すると飯田城には織田家家臣毛利秀頼が入りましたが、同年、明智光秀の謀反により織田信長がこの世を去ると旧武田領は上杉家、徳川家、北条家による天正壬午の乱が発生し不安定な情勢が続きます。文禄2年(1593)、毛利秀頼が死去すると娘婿である京極高知が城主となり、高知代で飯田城は近世城郭へと大改修されます。江戸時代に入ると小笠原秀政が入封し飯田藩が立藩、飯田城は飯田藩の藩庁、藩主居館が整備されます。江戸時代前期は藩主が頻繁に交代し、寛文12年(1672)に堀親昌が飯田藩主に就任すると、以後、歴代堀家が藩主を歴任しています。
松代宿・町並み:長野県長野市松代町
松代宿:長野県長野市松代町 ・松代宿は谷街道の宿場町であると共に松代藩の藩庁が置かれた松代城の城下町でもあります。松代城は戦国時代に武田信玄が信州侵攻の際、戦略的拠点として築かれた海津城を拠点とする城郭です。海津城は甲州流築城術の特徴を用いた平城で、川中島の戦いなどで武田家に利用され、武田家時代は重臣である春日虎綱(高坂昌信)が城代として詰めていました。天正10年(1582)に武田家が滅びると織田家の家臣森長可の居城となりますが、同年、本能寺の変で織田信長が自ら命を絶つと、春日山城(新潟県上越市)の城主上杉景勝が南下を開始し、信州北部は上杉領となりました。慶長3年(1598)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると、豊臣秀吉の家臣田丸直昌が入り、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後は森忠政、松平忠輝(忠輝時代に城名を松代城に改名、松代城の城代として家老の花井吉成が配された)、酒井忠勝が次々と入れ替わり、元和8年(1622)に真田信之が13万石で松代藩に入封すると、以後、真田家が松代藩の藩主を歴任します。
飯山宿・町並み:長野県飯山市
飯山宿:長野県飯山市 ・飯山の地は越後国(新潟県)と信州国(長野県)との国堺に近かった為、戦略的に重要視された地域です。中世は有力御家人から失脚した泉氏の本拠でしたが、時代が下がると高梨氏が台頭し、高梨氏の支配を受けるようになります。戦国時代に武田信玄が信濃に侵攻するようになると、高梨氏や泉氏は春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信に頼るようになり、飯山城は上杉謙信自ら縄張りにより大改修され、上杉家の拠点となりました。江戸時代に入ると飯山藩が立藩し、飯山城は飯山藩の藩庁が設置されました。飯山城の城下町は谷街道の起点にもなり、さらに日本海側に通じる十日町街道にも通じていた事から多くの物資が行き交い繁栄しました。江戸時代末期には飯山藩の決断力の悪さから戊辰戦争に巻き込まれ大きな被害を受けています。
大町宿・町並み:長野県大町市
大町宿:長野県大町市 ・大町地区(千国街道:宿場町)は中世から戦国時代にかけて、仁科氏の本拠だった地域で、周辺には仁科氏の縁の仁科神明宮若一王子神社霊松寺などの社寺仏閣が数多く点在します。又、古くから日本海と信州とを結ぶ経路の中継地だった為、経済活動も活発で、江戸時代に入り千国街道が整備された後も引き続き、物資の中継地として機能しました。大町宿に境内を構える若一王子神社は古くから神仏習合し、明治維新後に発令された神仏分離令では過剰に反応した松本藩から厳しい対応を迫られましたが、現在でも若一王子神社の境内には三重塔や、観音堂、複数の仏像が残され往時の名残が見られます。大町宿の郊外にある仁科神明宮は、江戸時代前期まで式年造替が脈々と受け継がれた神社で、現在の残されている本殿は日本最古の神明造の建物として国宝に指定されています。
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