砥石城(上田市真田町)概要: 砥石城は長野県上田市上野に位置する中世の城郭です。砥石城の築城年は不詳ですが真田一族によって築かれたのが最初と考えられています。天文10年(1541)、当時の当主真田幸隆は海野平合戦で武田、諏訪、村上の連合軍破れ、箕輪城(群馬県高崎市)に逃れると、当地域は村上氏の支配下に入ります。砥石城は村上氏にとって小県地方を支配する最重要拠点で、天文10年(1541)当時の村上氏の当主村上義清は大改修を行っています。村上氏と武田氏が不仲になると最重要拠点である砥石城を巡る攻防戦が度々行われ、特に天文19年(1549)の攻防戦では城攻めを諦めた武田勢を村上勢が背後から急襲し、壊滅的な被害をあたえ「砥石崩れ」とも云われています。当時、真田幸隆は武田信玄に臣従し家臣として戦功を重ねていましたが天文20年(1551)独力で砥石城を攻略した事で旧領を回復し、砥石城を与えられました。
砥石城が落とされた事で村上氏の衰退は決定的となり、居城である荒尾城が脅威にさらされると上杉氏を頼り越後に落ち延びています。その後、砥石城は真田氏の居城になったともされますが一時的なもので、現在真田氏館、真田氏本城と呼ばれる方に本拠を移し、天正13年(1585)、当時の当主真田昌幸が上田城に居城を移すと上田城の支城になったと思われます。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは西軍に与した昌幸は幸村を配しましたが、東軍に与した真田信之が侵攻した為、戦わず撤退し難なく信之が接収しています。
城は枡形城、本城、砥石城、米山城の4要害で1つの城を形成している複合城郭で、現在も郭の形状や土塁、空堀などが随所に残り昭和44年に長野県指定史跡に指定されています(写真は4要害のうちの砥石城を掲載しています。案内板では「本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平方形郭で、周囲の展望は実によい。 長野県教育委員会 上田市教育委員会」とあります)。
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