藪原神社(木祖村)

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概要・歴史・観光・見所
藪原神社(木祖村)概要: 藪原神社は長野県木曽郡木祖村に鎮座している神社で、中山道(木曽路)の宿場町である藪原宿の鎮守として信仰されてきました。藪原神社の創建は天武9年(680)三野王(美濃王)が勅使として信濃国巡視を行った際、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。三野王は美濃王ととも呼ばれ壬申の乱(672年)で大功があり天武天皇の皇親政治に重きを成し、「日本書紀」の編纂にも携わった人物で、記録によると天武天皇13年(684)に采女筑羅とともに信濃国(現在の長野県)の地形の調査の為に遣わされ、都に帰還後、信濃国の図を作成し提出した事が実績として残されている事から、年代に多少の誤差が生じているものの、この間に藪原神社を創建したのかも知れません(木曽地方は当時、美濃国に属していた事から、社伝通り680年に創建したとも考えられます)。

当初は熊野社と称して縣坂頂峯に鎮座していましたが、鎌倉時代に入った建久3年(1192)に縣坂南効(十王)へ遷座、熊野大権現と呼ばれるようになり、戦国時代の永正8年(1511)に現在地に再遷座し、江戸時代には白川家の宣旨により熊野大神宮と呼ばれるようになっています。明治時代初頭に発令された神仏分離令を受けて仏教色が一掃され明治4年(1871)に現在の社号である「藪原神社」に改めています。境内に設けられている案内板によると「 この本殿は、三間社流造 軒唐破風付 屋根はこけら葺である。文政10年(1827)諏訪の工匠2代立川和四郎冨昌の作で向拝を始め随所に華麗な彫刻が多く特に万寿頭の宝づくしと呼ぶ金嚢などの彫刻は立川流のなかでもあまり例をみないものである。」とあります。

現在の藪原神社本殿(附取外し鬼板1面)は文政10年(1827)に諏訪出身の名工として知られる2代立川和四郎冨昌が造営したもので木造平屋建て、三間社流造、こけら葺、桁行3.27m、梁間1.85m、正面軒唐破風付、江戸時代後期の社殿建築の特徴の1つである精緻な彫刻が向拝の桁や木鼻、蝦虹梁などに数多く施され、拝殿兼覆い屋(切妻、銅板葺、平入、正面入母屋向拝付、間口4間、奥行7間)内部に納まっています。藪原神社本殿は江戸時代後期の神社本殿建築の遺構で意匠、技術的にも優れている事から取外し鬼板1面と共に昭和61年(1986)に木祖村指定有形文化財に指定されています。例祭は毎年7月中旬の土日の2日間、例祭の発生起源は不詳ですが、江戸時代中期の宝暦7年(1757)に編纂された「吉蘇志略」に例祭が行われていたと思われる記載がある事から少なくともこれ以前からと推察されます(享保年間:1716〜1735年に三河から伝わったとも?)。又、境内には明治41年(1908年)11月に建立された松尾芭蕉の「杜かけに ワれらもきくや 郭公」の句碑があります(正式な芭蕉の句ではないようです)。祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命。相殿:須佐之男命、菅原道真公。

藪原神社:写真

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