須原宿(木曽路)概要: 須原宿の都市的な始まりは木曽路の宿場町の中では早く、室町時代中期には現在ある定勝寺境内の背後にある愛宕山山頂に須原城が築かれ、その城下町として発展しました。須原城は室町時代に木曽氏が本城として築かれた山城で、戦国時代に木曽義在が上之段城(長野県木曽郡木曽町)に遷るまで木曽氏の本拠地でした。木曽氏は木曽義仲の後裔を自称する氏族で、義在はその17代目で領内の整備に尽力し天文2年(1533)には馬籠宿(岐阜県中津川市)から洗馬宿(長野県塩尻市)までの街道(現在の木曽路の前身)を整備し、須原宿がその中心になったと思われます。
現在定勝寺が境内を構える平地は木曽義在の居館があった場所で、定勝寺は木曽氏の菩提寺として篤く庇護されました。18代木曽義康は本拠を福島宿のある福島城に移した為、須原宿の重要性はやや低下しましたが、引き続き木曽氏の拠点の一つとして機能したようです。天正18年(1590)に徳川家康に従った木曽氏が徳川家の関東移封に伴い木曽谷を去ると須原城も廃城となり、代わって豊臣秀吉の家臣石川貞清が領主となり、定勝寺を現在地に移転し堂宇の造営を行っています。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで石川貞清は西軍に加担した為に改易となり、江戸時代に入ると尾張藩領に組み込まれ福島宿に本拠とした代官山村氏の支配を受けます。慶長7年(1602)に中山道(木曽路)が整備されると須原宿は69次中39番目の宿場町として成立し本陣や脇本陣、問屋などが定められています。天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると須原宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒、家屋104軒、人口478人で構成され4町35間(約450m)の長さ、中山道の宿場町としては中規模だったとされます。当初の須原宿は木曽川沿いに町割りされましたが、江戸時代中期の正徳5年(1715)の大洪水により大きな被害を受け享保2年(1717)に高台である現在地に移ってきました。
須原宿は新しく町割された宿場町の為、他の宿場町の良い部分が模倣され、道が幅広で街道中央に水路、宿場の出入口に枡形を設け、中央が緩やかな曲線にするなどの工夫が見られます。須原宿の本陣は代々木村家が世襲し往時の屋敷は建坪136坪あり格式の高い建物が建てられていました。須原宿の脇本陣は代々西尾家(祖は木曽家家臣)が世襲し、脇本陣役だけでなく問屋や庄屋を兼ね、木曽領の代官山村家に従った事で尾張藩の山林取締などを行いました。
須原宿は慶応2年(1866)に火災により多くの建物が焼失した為、明治以降の町屋が軒を連ねる一方で奈良井宿や妻籠宿のような観光化されていない事でゆっくりとした時間を感じる事ができ、中山道の中では比較的に新しい宿場町なので(氾濫で現在地に移ってきた)道路の幅が広いなど独特な雰囲気を持っています。明治時代に入ると多くの文人墨客が訪れるようになり島崎藤村(藤村の姉「園」が宿場内にある清水医院に入院)の「ある女の生涯」、幸田露伴(明治22年:1889年に木曽路を旅し須原宿で宿泊)の「風流仏」の作品の舞台でもあり、正岡子規が明治24年(1891)に中山道(木曽路)を旅し須原宿で宿泊した際に「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」の句を残しています。
江戸時代末期の慶応2年(1866)や明治20年(1887)の火災により多くの町屋建築は焼失しましたが、その後に建てられた古民家が数多く残され落ち着いた宿場町らしい町並みが続いています。又、古くから水が豊富な宿場町として知られていたことから丸太をくりぬいて作られた"水舟"という水場を再現、継承する運動が盛んで町並みのいたる所に見ることが出来「水舟の里」とも呼ばれています。宿場の京側の端には木曽三大寺の1つに数えられる定勝寺(本堂・庫裏・山門:国指定重要文化財)があり周辺には岩出観音、白山神社、天長院、池口寺などの社寺が点在しています。
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