上松宿(木曽路)概要: 上松宿は慶長年間(1596〜1615年)から元和年間(1615〜1624年)に整備された宿場町で中山道69次中38番目に位置しています。ただし、戦国時代の天文2年(1533)に当時の領主木曽義在が領内の馬籠宿(岐阜県中津川市)から洗馬宿までの街道(木曽路の前身)を整備した際に宿場町として成立したと推定されています。
19代木曽義昌の弟である木曽義豊が当地(上松氏館)に配されると、義豊は地名因み上松蔵人と称し天正10年(1582)に行われた鳥居峠での武田勝頼との戦いでは大きく貢献しています。また、上松氏館の麓には義在の弟とされる玉林和尚が天正年間(1573〜1593年)玉林院を創建し、源氏の氏神である八幡神社や諏訪神社を勧請しています。天正18年(1590)に義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されると義豊も従い上松の地を離れ館も廃城となっています。因みに義豊は義昌の跡を継いだ木曽義利と対立し、慶長年中(1596〜1600年)に殺害、この問題を重く見た徳川家康は慶長5年(1600)に義利を改易にして、大名家としての木曽氏は没落しています。
上松宿は木曽路の宿場町であると同時に木曽檜を中心とした木材の産出拠点として発展し、木曽谷を支配した尾張藩では上松材木役所を上松宿に設け藩直轄で業務を行うことで利益を独占するなど重要視しました。木曽地方には木曽5木と呼ばれる「檜」、「椹」、「翌檜」、「杜松」、「高野槙」の産地として知られていましたが、江戸時代初期は代官である山村の管理の下、全国的に城郭の築城や城下町の建設、庶民の生活向上に多くの木材が利用され為、乱伐が続き禿山も見られるようになった事から、尾張藩では寛文3年から4年(1663〜1664年)にかけて調査を行い、これらの事態に危機感を覚えた尾張徳川家は山村氏から権限を採り上げて藩直営にして厳しく管理させたそうです。上松材木役所は規模は南北65間、東西55間、敷地面積3500坪と広大で周囲には土塁と柵を築き大砲を設置するなど当地域の軍事的、行政的な拠点となり、奉行、吟味役、調役、目代、元締、同心などの藩の役人が派遣されていました。特に木材の乱獲により山が荒廃すると生産管理を徹底し、木曽檜の利用を制限し領地外に運ぶ際にも許可が必要でした。
天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると上松宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口2482人で構成され上町、本町、仲町、下町の4町で区画、本陣は藤田九郎左衛門家、脇本陣(総庄屋、問屋役)は原家が代々その職務を歴任しています。上松宿の入口には高札場が立てられ、そのすぐ近くには信仰の対象になった十王堂が建立されていました。慶応2年(1866)の大洪水により御堂が残され、現在は残された石仏のみが安置されています。
昭和25年(1950)の大火災に見舞われ上松宿の多くの建物が焼失しましたが上町だけが焼失をまぬがれ、上町の鎮守である八幡神社本殿と玉林院の鐘楼門が上松町指定文化財に指定されるなど当時の宿場町の雰囲気を残しています。本陣は代々藤田九郎左衛門家が世襲し、脇本陣は原家がその役を務めていました。文久元年(1861)11月2日には皇女和宮が降嫁の際は中山道を利用し上松宿では本陣で宿泊しています。行列は2万5千人から3万人、約50キロに及んだとされ、当然上松宿だけでは賄いきれず周辺の宿場と共に数日間にわたり尽力しています。上松宿は「木曽の桟」、「寝覚の床(国指定名勝)」、「小野の滝」と木曽八景に数えられる名勝が隣接した為、景観を求める人も多く、文芸作品の舞台にもなっています。
|