上松宿(木曽路)・寝覚の床

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上松宿(木曽路)・寝覚の床

【 概 要 】寝覚の床(長野県木曽郡上松町・上松宿)は木曽路(中山道)上松宿(木曽路)・寝覚の床随一の名勝として知られた存在で、戦国時代の武将、歌人としてしても知られた細川幽斉が天正18年(1590)に小田原の役(豊臣秀吉による小田原北条氏殲滅戦)に従軍し木曽路を利用した際に寝覚の床を訪れています。その時の様子を著書である「玄旨法印道之記(老の木曽越)」に記載されており、寝覚の床に対して「老の木曽越云、世に寝覚の床といふは、幾重にたたまりたる岩のはざまより、たぎり落る水の最白く、淀の青々と湛へたる、たとへば藍瓶に絹などおとし入れて染るが如し、河土削成青岩形、誰家染出碧潭之色とつづれしも此等の気色にやと・・・・云々」と評し「山里は ねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那」の歌を残しています。江戸時代の本草学者、儒学者である貝原益軒は貞享2年(1685)に当地を訪れ「岩の松 ひびきは波にたちかはり 旅の寝覚の床ぞさびしき」の歌を残し、宝永6年(1709)に編纂した「岐蘇路記」にも名勝として評してします。貞享5年(1688)には俳人松尾芭蕉は門人越人を伴い岐阜から更科に至る際、木曽路を利用し寝覚の床や木曾の棧橋などを見学しています。寝覚の床での芭蕉の正式な発句ではありませんが、「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」や「ひる顔に ひる寝せふのも 床の山」は寝覚の床を彷彿させる句とされます。江戸時代中期の寛保3年(1743)頃には尾張藩の書物奉行をしていた松平君山が近江八景になぞって木曽路八景(徳音寺の晩鐘・駒 ヶ岳の夕照・御嶽の暮雪・桟の朝霞・寝覚めの夜雨・風越の晴嵐・小野の瀑布・与川の秋月)を選定、その中の1つ「寝覚めの夜雨」として「雨鎖山亭夜色寒 飛涛触石響回湍 猶擬雲霧空濠裏 自有地仙把釣竿」の漢詩が添えられています。明治時代以降も文人墨客が数多く来訪し、俳人、歌人、国語学研究家である正岡子規が明治24年(1891)に木曽路を旅した事を記した著書「かけはしの記」で上松宿(木曽路)・寝覚の床「寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり」の一説を残しています。明治から昭和初期にかけての俳人、種田山頭火も昭和14年(1939)に木曽路を旅した事を記した著書「旅日記」で「上松町に着く、そこから半里位で、名だゝる寝覚の床、臨川寺からの眺望はすぐれてゐる、娘の子が二人せつせといたどりを採つてゐた。」の一説と「おべんたうを食べて洗うて寝覚の床で」の句を残しています。その他にも島崎藤村の「夜明け前」や幸田露伴の「風流仏」、中里介山の「大菩薩峠」など多くの作品に寝覚の床は描かれています。又、寝覚の床には浦島太郎伝説が伝わり、真偽は判りませんが興味深い所ではあります。寝覚の床は大正12年(1923)には国指定名勝にも指定されています。

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