上松町: 寝覚の床(浦島太郎伝説)

  長野県:歴史・観光・見所木曽路(中山道)上松宿>寝覚の床

概要・歴史・観光・見所
寝覚の床(上松町)概要: 寝覚の床は木曽路(中山道)随一の名勝として知られた存在で、大小様々な岩には「床岩」、「獅子岩」、「大釜」、「小釜」、「屏風岩」、「烏帽子岩」、「象岩」、「腰掛け岩」などの名称が付けられ、中央の大床には浦島堂が建立されています。戦国時代の武将、歌人としてしても知られた細川幽斉が天正18年(1590)に小田原の役(豊臣秀吉による小田原北条氏殲滅戦)に従軍し木曽路を利用した際に寝覚の床を訪れています。その時の様子を著書である「玄旨法印道之記(老の木曽越)」に記載されており、寝覚の床に対して「老の木曽越云、世に寝覚の床といふは、幾重にたたまりたる岩のはざまより、たぎり落る水の最白く、淀の青々と湛へたる、たとへば藍瓶に絹などおとし入れて染るが如し、河土削成青岩形、誰家染出碧潭之色とつづれしも此等の気色にやと・・・・云々」と評し「山里は ねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那」の歌を残しています。

寝覚の床見下ろす隣地に境内を構える臨済宗妙心派の寺院である臨川寺は、浦島太郎が彫刻したと伝わる弁財天を元にして創建されたと伝えられる名刹で、参勤交代で中山道を利用する西国大名や文人墨客が当寺に休息や宿泊をして寝覚の床の景観を楽しんだそうで寺宝として浦島太郎の物と伝わる釣竿を所有しています。歴代尾張徳川家も庇護し、特に4代藩主徳川吉通が正徳岩元年(1711)に当寺を訪れた際に寝覚の床に感動し、母親の延命長寿を祈願して弁財天堂を造営し翌年の正徳2年(1712)に竣工しています。弁財天堂は入母屋、銅板葺、妻入、正面軒唐破風、桁行7尺、梁間10尺、棟梁は尾張藩御大工岩崎治兵衛是清、上松町に残る最古の木造建築物として貴重な事から上松町指定文化財に指定指定されています。

江戸時代の本草学者、儒学者である貝原益軒は貞享2年(1685)に当地を訪れ「岩の松 ひびきは波にたちかはり 旅の寝覚の床ぞさびしき」の歌を残し、宝永6年(1709)に編纂した「岐蘇路記」にも名勝として評してします。貞享5年(1688)には俳人松尾芭蕉は門人越人を伴い岐阜から更科に至る際、木曽路を利用し寝覚の床や木曾の棧橋などを見学しています。寝覚の床での芭蕉の正式な発句ではありませんが、「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」や「ひる顔に ひる寝せふのも 床の山」は寝覚の床を彷彿させる句とされます。

江戸時代中期の寛保3年(1743)頃には尾張藩の書物奉行をしていた松平君山が近江八景になぞって木曽路八景(徳音寺の晩鐘・駒 ヶ岳の夕照・御嶽の暮雪・桟の朝霞・寝覚めの夜雨・風越の晴嵐・小野の瀑布・与川の秋月)を選定、その中の1つ「寝覚めの夜雨」として「雨鎖山亭夜色寒 飛涛触石響回湍 猶擬雲霧空濠裏 自有地仙把釣竿」の漢詩が添えられています。

明治時代以降も文人墨客が数多く来訪し、俳人、歌人、国語学研究家である正岡子規が明治24年(1891)に木曽路を旅した事を記した著書「かけはしの記」で「寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり」の一説を残しています。明治から昭和初期にかけての俳人、種田山頭火も昭和14年(1939)に木曽路を旅した事を記した著書「旅日記」で「上松町に着く、そこから半里位で、名だゝる寝覚の床、臨川寺からの眺望はすぐれてゐる、娘の子が二人せつせといたどりを採つてゐた。」の一説と「おべんたうを食べて洗うて寝覚の床で」の句を残しています。その他にも島崎藤村の「夜明け前」や幸田露伴の「風流仏」、中里介山の「大菩薩峠」など多くの作品に寝覚の床は描かれています。又、寝覚の床には浦島太郎伝説が伝わり、真偽は判りませんが興味深い所ではあります。寝覚の床は大正12年(1923)には国指定名勝にも指定されています。

寝覚の床の句や歌
・ 浦しまのよはいものべよ法の師は ここに寝覚の床をうつして- 綾小路宰相有長
・ 老の身におもひをそえて行道の 寝覚の床の夢もうらめし-小倉大納言実起公
・ 谷川の音には夢も結ばじを 寝覚の床と誰が名つくらん-近衛摂政家照公
・ 岩の松ひびきは波にたちかはり旅の寝覚めの床ぞ淋しき-貝原益軒
・ 山里はねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那-細川幽斎
・ 旅のやどりの寝覚の床−長野県歌(信濃の国:4番)
・ 誠やここは天然の庭園にて・・・-正岡子規
・ 七とせの あとおや おもうたれか又 ねさめの床の 雨のよすがら-木曽八景

【 寝覚の床浦島太郎伝説 】-寝覚の床では大きく2つの浦島太郎伝説があり、1つは亀を助けた浦島太郎が乙姫(助けられた亀)の誘いにより竜宮城に案内され、竜王から篤いお持て成しを受け、数日後、ふと故郷を思い出し、帰郷の意を竜王に伝えると、竜王から「弁財天像」と「万宝神書」と呼ばれる秘伝書、絶対に開けていけない「玉筐」を御土産にもらい、故郷に戻りました。すると、そこは故郷であって故郷でない不思議な場所で、村人に尋ねると、300年前に浦島太郎が消えて両親も悲痛な思いで亡くなったという話しを聞かされました。浦島太郎は深く悲しみましたが、とりあえず「万宝神書」を紐解き解読すると、自由に空を飛びまわる方法と延命長寿の効き目がある秘薬の製造方法だけは理解する事が出来ました。浦島太郎は飛行術を会得すると、日本中飛び回り、一番竜宮城に似たこの地(寝覚の床)が大変気に入り、住み着くようになりました。それから暫くすると、住民とも仲良くなり竜宮城での生活などを話していると、話しの流れで「玉筐」を見せる事となり、竜王との約束を破り「玉筐」を開けてしまいました。すると、箱の中から白い煙が立ち上がり浦島太郎を包み込むと300歳はなろうかという老人に姿を変えました。浦島太郎は飛行術が使えなくなり、已む無く、この地で延命長寿の薬を売っていましたが、やがてその姿を見る人もいなくなりました。ある時、村人が何時も浦島太郎が釣りをしていた場所に行って見ると「弁財天像」と「釣竿」だけが残されていたので、一宇を設けてそれらを奉納したと伝えられています。この時設けた一宇が現在の寝覚山臨川寺の前身とされています。

もう1つの伝説は、略同じ内容ですが、上記のように浦島太郎が飛行術により空から「寝覚の床」を探し出したのでは無く、偶々、木曽路を歩いていた際に発見したとされ、玉手箱を開けた事で、300歳の老人となり、改めて夢から目が覚めたので、ここを「寝覚の床」というようになったと伝えられています。

丹後国風土記と一般的な浦島太郎の「おとぎ話」や「昔話」、そして「寝覚の床」での伝承と比べる差違があって興味深いところです。丹後国風土記の宇宙船を思わせる記述は、「寝覚の床」の飛行術や延命長寿の薬は似たような印象を受ける一方、話の筋としては一般的な「おとぎ話」と「寝覚の床」の伝承が似ている点が多い事が分かります。浦島太郎の「おとぎ話」や「昔話」は室町時代に成立している事から、丹後国風土記を知っている室町時代以降の人物が、延命長寿を歌う薬を木曽路の上松周辺で販売する際、自分を浦島太郎に見立てて、この話を流布したとも考えられます。

【 寝覚の床三帰翁伝説 】-中山道(木曽路)の宿場町である上松宿(長野県木曽郡上松町)には「見帰」と呼ばれる地名があり仙人伝説が伝えられています。それによると、昔、仙人と思われる白髪、白髭の翁が当地に住み着き、不老長寿の妙薬を使い名医として医療に携わり住民達からも尊敬されていたそうです。翁は不老長寿の妙薬を作る為に三度山中に籠り、三度帰ってきた為、「三帰」という地名が成り、それが転じて「見帰」になったと伝えられています。

この伝説が広く知られるようになると、この伝説を題材に謡曲「寝覚」、「飛雲」が作られ、さらに人々から知られるようになりました。江戸時代初期の本草学者、儒学者である貝原益軒が木曽路を旅した事柄を纏めた「木曾路之記」にも「寝覚の床」と「三帰翁」の事を記載し、信じられない話であると評しています。

謡曲「寝覚」・概要-木曽路の上松宿の名所として知られる「寝覚の床」には三帰の翁と呼ばれる老人が住んでいて不老長寿の薬を授けているという噂が立ち、その噂は都にも広がりました。その話しを聞き及んだ醍醐天皇が真相を知る為に、勅命により勅使を寝覚の床の三帰の翁の下に遣わしました。勅使が寝覚の床に到着すると、1人の老人と出会い、三帰の翁の話しを聞くと、翁は不老長寿の薬を3度服し、その都度若返りを果たした事から2千年も生き続け、特定な家が無いが暫く待っていると時期に寝覚の床に現れるのではないか、と話しました。さらに勅使が寝覚の床や地名の由来を尋ねると、老人は雄弁に答えて、遂に自分が三帰の翁である事を白状しました。三帰の翁は夜に再び寝覚の床に戻るので、その時に不老長寿の薬を渡しましょうとの約束をして姿を消しました。勅使は約束通りに夜更け頃に寝覚の床を訪ねると、天女と思われる絶世の美女が2人舞を舞い、さらに、三帰の翁が現れると自ら、私は薬師如来の化身で人の姿を変え世の中の無病息災に尽力しています、と告げ、天女と共に舞い始めました。すると、寝覚の床の川底から2匹の竜神が出現し、不老長寿の薬が入った壺を三帰の翁に渡しました。3人2匹の舞は夜明けまで続けられ、最後に三帰の翁が勅使に薬の入った壺を手渡すと、明け方の空に姿を消しました。

謡曲「飛雲」・概要-紀州三熊野で修行を重ねた山伏が出羽三山の羽黒山(山形県鶴岡市)に参拝しようと木曽路を北上し当地(寝覚の床)で一休みしていると、1人の年老いた樵夫が出現し一緒に腰を下ろし紅葉を眺めながら様々な話しをしました。すっかり2人は仲が良くなり、樵夫は今宵、もう1度紅葉を見ながら朝まで語り合おうと約束し姿を消しました。山伏は夜まで時間があるので、その場で一眠りすると、霊夢に日頃から信仰していた熊野大権現の化身が立ち、先程の老人は「飛雲」と呼ばれる鬼神で山伏に危害を加えようとしている事を告げました。山伏が目を覚ますと、すぐさま、悪霊退散の祈念を行っていると、寝覚の床から黒い煙が立ち上がり「飛雲」が出現し、山伏に襲い掛かろうとしましたが、山伏がさらに祈念を強めると、その法力と熊野大権現の御加護により、何とか「飛雲」を退かせる事が出来ました。「飛雲」は力を失うと黒煙の中に姿を消し、その黒煙も風と共に見えなくなりました。

寝覚の床-寝覚の床には浦島太郎が竜宮城の主である竜王から延命長寿の効き目がある秘薬の製造方法が記載されている「万宝神書」を賜り、それを元にその秘薬を製造していたとの伝承が残されている事から、三帰翁の伝説と通じるものがあります。どちらが元になったのかは不詳ですが、興味深いところです。

寝覚の床:写真

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寝覚の床と関係した歴史的人物

人 物 名
備 考
細川幽斎・幽斎は木曽路にある寝覚め床は、幾重にも岩が重なりあい、そこから流れ落ちる水は本当に白く、淀は深く青々としている。まるで、真っ青な藍の入った瓶に真っ白な絹を入れたようだ。と評し、「山里は ねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那」の歌を残しています。
松尾芭蕉・貞享5年(1688)8月、45歳の事で美濃国から信州更科に旅した約20日間の行程を「更科紀行」に記載されています。寝覚の床には「ひる顔に ひる寝せふもの 床の山」の句碑が建立されています。
貝原益軒・寝覚の床は木曽川の際にあり、大きな岩は横10間、長さ40間程で、最も高い所には弁財天を祭る小さな社があり、その1段下が平らな部分があり、この様から寝覚の床と云われるようになったとしています。その他にもそれぞれ特徴ある岩とその謂れを説明し、余りにも優れた風景すぎて、もはや奇妙な風景というしかない、言葉で表現する事が出来ないと評しています。一方、寝覚の床には浦島太郎の伝説が伝えられているが、日本記や古事記(浦島太郎の話の原型が記載)には寝覚の床の事が記載されていなく、寝覚の床に住んでいた三帰の翁という長寿の薬を人に与えるという伝説から「飛雲」という歌謡が作られていますが、こちらも信じる事が出来ないと評しています。
菅江真澄・菅江真澄が木曽路を訪れたのは天明2年(1782)5月の事で「寝覚め床」の事を後年、秋田の女川集落と同様に浦島太郎伝説が伝えられている事や、秋田の新町集落の蕎麦が寝覚め床で食べたものと似ていると語っています。
正岡子規・子規は寝覚の床を浦島太郎が竜宮城から帰ってきた後に釣り竿を垂れた場所で、川の中で松が生えている大きな岩が寝覚の床岩、その上の祠を浦島堂と説明し、屏風岩や畳岩、象岩、獅子岩、こしかけ岩、俎板岩、釜岩、硯岩、烏帽子岩などがあり「誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし」と評しました。「白雲や 青葉わかはの三十里」の句碑が建立されています。
種田山頭火・素晴しい景観ではあるが、直ぐ近くに鉄道が通り、送電塔があるのは相応しくないと評しています。「おべんとうを 食べて洗ふて 寝覚めの床で」の句碑が建立されています。


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