貝原益軒

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人 物 名
備 考
・貝原益軒・貝原益軒は福岡藩の藩士で一時、2代藩主黒田忠之の反感を買い浪人生活を余儀なくされましたが、3代藩主黒田光之からは重用され、藩費で京都に留学し多くの学問を学んでいます。福岡藩では藩医や朱子学の講師、朝鮮通信使の接待、藩境決定の段取りなどに尽力する一方で様々な地誌や本草書、教育書などの編纂も行っています。貝原益軒が木曽路の旅したのは貞享2年(1685年)の事で、その時の様子が著書「岐蘇路記」に詳しく記しています。
・贄川宿贄川宿は町家60〜70軒程度で番所有りと紹介しています。
・奈良井宿奈良井宿は民家100軒程度で、椀、折敷(料理の器を並べる盆)、曲物を漆で塗って販売しているとし、鳥居峠を木曽義昌と武田勝頼との古戦場と紹介しています。
・薮原宿薮原宿は町家80軒程度で、此処より先が木曽谷で、古代は美濃国に属していたとし、深山幽谷の地である事を紹介しています。
・宮ノ越宿宮ノ越宿は屋敷50軒程度で、木曽義仲巴御前の史跡でる徳音寺や八幡宮、義仲の屋敷跡がある事を紹介しています。
・福島宿福島宿は町家は120〜130軒程度で、木曽路や信濃路の中では最も良い町と評し、様々な品々が売買され、幕府の関所(福島関)、興禅寺があり山村氏が支配していると紹介しています。
・木曽の桟木曽の桟は木曽川に架かる橋ではなく、崖地で道が無い場所に架かっている橋と説明しています。幅2間、距離10間程度で欄干があり石垣が築かれているとし、昔は大変危なかったが、尾張徳川家が堅固に整備した結果、危なくなくなったと評しています。
・上松宿上松宿は民家は80軒程度で、諏訪大明神(現在の諏訪神社)や臨川寺、寝覚の床があると紹介しています。寝覚の床は木曽川の際にあり、大きな岩は横10間、長さ40間程で、最も高い所には弁財天を祭る小さな社があり、その1段下が平らな部分があり、この様から寝覚の床と云われるようになったとしています。その他にもそれぞれ特徴ある岩とその謂れを説明し、余りにも優れた風景すぎて、もはや奇妙な風景というしかない、言葉で表現する事が出来ないと評しています。一方、寝覚の床には浦島太郎の伝説が伝えられているが、日本記や古事記(浦島太郎の話の原型が記載)には寝覚の床の事が記載されていなく、寝覚の床に住んでいた三帰の翁という長寿の薬を人に与えるという伝説から「飛雲」という歌謡が作られていますが、こちらも信じる事が出来ないと評しています。小野の滝は、大変見事な滝で、昔、細川幽斎が木曾越という紀行文で紹介しているとしています。
・須原宿須原宿は町家80軒程度、大きく長い橋があると紹介しています。
・野尻宿野尻宿は町家50軒程度と紹介しています。三留野宿の間には屏風を立てたような岩が多く、木曽川の川底も深く、桟も多く、木曽の桟よりも危険であるとしています。
・三留野宿三留野宿は民家60軒程度と紹介しています。
・妻籠宿妻籠宿は清南寺越(大平街道:妻籠宿と三州街道の飯田宿を結ぶ街道)が分岐していると紹介しています。
・馬籠宿馬籠宿は民家27〜28軒で馬籠宿から美濃国に入ると紹介しています。
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木曽路・人物一覧
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