細川幽斎 |
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人 物 名 | 備 考 |
・細川幽斎 | ・細川幽斎は三淵晴員の子供として生まれました、幼少時に叔父である細川元常の養子となり、室町幕府の幕臣として13代将軍足利義輝に仕えました。しかし、永禄8年(1565)に三好三人衆と松永久秀の謀反により義輝が討たれた為、今度は弟である足利義昭の擁立に尽力し、織田信長の協力を求めました。この際、窓口となった明智光秀と関係が出来き、元亀4年(1573)以降は義昭を見限り信長に従うようになっています。その後は形式上明智光秀の与力大名として各地を転戦し丹後南半国の加増が認められています。又、光秀の娘である玉(ガラシャ)を嫡男細川忠興の正室に迎えるなど関係をさらに深めています。天正10年(1582)の本能寺の変では明智光秀から参陣の要請があったものの、非常にも見限り、明智政権が短命だった大きな要因の1つとなっています。その後、羽柴秀吉に重用されるようになり、既に隠居していた事から高禄ではなかったものの主要な戦いには従軍しています。慶長3年(1598)に秀吉が死去すると徳川家康と関係を深くし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し田辺城(京都府舞鶴市南田辺)と西軍との激戦が繰り広げられています。慶長15年(1610)死去、享年77歳。
細川幽斎は歌人、文化人としても一流だったとされ「玄旨法印道之記(老の木曽越)」、「東国陣道記」には当時の木曽路を歩いた時の様子が記載されています。 |
・小野の滝 | ・幽斎は木曽路にある小野の滝は、名瀑として幾つもの和歌で詠われた布引滝(兵庫県神戸市中央区)や箕面の滝(大阪府箕面市)と全く遜色がない。何故、小野の滝が歌枕にならなかったのか不思議でしょうがないと賞賛しています。 |
・寝覚め床 | ・幽斎は木曽路にある寝覚め床は、幾重にも岩が重なりあい、そこから流れ落ちる水は本当に白く、淀は深く青々としている。まるで、真っ青な藍の入った瓶に真っ白な絹を入れたようだ。と評し、「山里は ねざめの床のさびしきに たへず音なふ滝枕か那」の寝覚め床の歌を残しています。 |
・興禅寺 | ・天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原の役の際、小田原城周辺に着陣したものの、重い病の為に戦が出来ず、暇を貰い領地に戻る途中、木曽路を通り興禅寺を立ち寄っています。境内に著書である「東国陣道記」の石碑が建立されています。 |
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