正岡子規

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人 物 名
備 考
・正岡子規・正岡子規は慶応3年(1867)に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれ、早くから家督を相続して、明治23年(1890)に帝国大学に進学し、明治24年(1891)に帝国大学国文科に転科した頃から句作を行うようになっています。明治25年(1892)に帝国大学を中退し新聞記者となり、明治28年(1895)には日清戦争の従軍記者として遼東半島に行きましたが数日後には和平が成立した事で、殆ど仕事が出来ず帰国しています。その船中で吐血し、神戸病院に入院、須磨保養院で療養後に松山に帰郷、自分の様がホトトギスに似ていると悟り俳号を「子規」と改めています。その後は積極的に俳句の興隆に貢献し、当時の俳諧に大きな影響を与えるようになりました。しかし、病魔には勝てず明治35年(1902)に死去。享年34歳。

正岡子規が木曽路(中山道)を旅したのは明治24年(1891)、25歳の時で上野を出発し松山に帰省する際に行いました。その時の様子を「かけはしの記」にまとめ、子規が就職していた新聞「日本」で発表しています。

・贄川宿贄川宿から奈良井宿に至る区間で「やさしくも あやめさきけり 木曾の山」の句を詠んだ。
徳利屋・奈良井宿脇本陣、旅籠、子規宿泊地。
・鳥居峠・「馬の背や 風吹きこぼす 椎の花」の句を詠んだ。
宮ノ越宿木曽義仲の居館、巴渕の見学、旗挙八幡宮、徳音寺の参拝。
・福島宿福島宿で宿泊、木曾第一の繁昌なりとぞと評し、「折からの 木曾の旅路を 五月雨」の句を詠んだ。
・木曽の桟松尾芭蕉の句碑と木曽の桟の見学。歌と句を残しており、石碑(かけはしや あぶない処に やまつつじ・桟や 水にとどかず 五月雨・むかしたれ 雲のゆききのあとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし)が建立されています。
・寝覚の床・子規は寝覚の床を浦島太郎が竜宮城から帰ってきた後に釣り竿を垂れた場所で、川の中で松が生えている大きな岩が寝覚の床岩、その上の祠を浦島堂と説明し、屏風岩や畳岩、象岩、獅子岩、こしかけ岩、俎板岩、釜岩、硯岩、烏帽子岩などがあり「誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし」と評しました。寝覚の床には「白雲や 青葉わかはの三十里」の句碑が建立されています。
須原宿・「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出づほどの空だにもなし」の歌碑。
三留野・松屋で午飯を食す。「はらわたも ひやつく木曾の 清水かな」の句を詠んだ。
・馬籠峠・「白雲や 青葉若葉の三十里」の句碑。
馬籠宿・「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」の句碑。
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