幸田露伴

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人 物 名
備 考
・幸田露伴・幸田露伴は明治時代から昭和初期の日本を代表する小説家・随筆家で慶応3年(1867)に現在の東京都台東区に生まれました。東京師範学校附属小学校、東京府第一中学、逓信省官立電信修技学校を卒業し、電信技師として北海道余市で働き始めましたが、文学に目が覚めたのか?中々仕事が手に付かないようになり、明治20年(1887)に仕事を放棄して帰郷しています。その後、父親の愛々堂(紙販売店)で仕事を手伝いながら、次々と作品を発表するようになり、同世代の尾崎紅葉と共に「紅露時代」、又は尾崎紅葉、坪内逍遥、森鴎と共に「紅露逍鴎時代」呼ばれ一世を風靡しました。昭和12年(1937)に文化勲章を授与、帝国芸術院会員に選定されています。昭和22年(1947)に死去。享年80歳。

幸田露伴が木曽路を訪れたのは明治22年(1890)の事で、須原宿で宿泊した時の経験が代表作である「風流仏」の製作の基になったとされます。

「風流仏」は幸田露伴の出世作とも言える作品(短編小説)です。概要は若い彫刻師である珠運がさらなる技術を高める為に全国に修行行脚している中、木曽路を旅したまたま須原宿の旅館に宿泊しました。すると、1人の「花漬け」の売り子が部屋を訪ねてきたのですが、その売り子は珠運が今まで会ってきた女性の中でも容姿や仕草が何とも言えない程に可愛らしく一目ぼれをしてしまいました。彼女は名前を辰と言い、父親は幕末の志士で、戦乱の中姿を消し帰ってこなかった事から、母親1人で育てる事になったものの、無理が祟り母親も死んでしまいました。そこで、辰は叔父に引き取られ、「花漬け」の売り子や内職をさせられているとの事。珠運は辰の不幸な生い立ちを聞き、せめてものと、辰が忘れた櫛に彫刻で細工をし彼女の部屋に届けようとしましたが、そこには柱に縄で縛られた辰の姿でした。珠運は急いで辰を救い出し、自分の部屋に連れ帰りましたが、すぐさま叔父が追いかけてきたので事情を聞くと、辰を人買いに百両で売るつもりだったとの事。珠運は自分で百両を支払い辰を開放し、結婚の約束までしましたが、突然、岩沼子爵の執事を名乗る男がやって来ると、実は、辰の父親が岩沼家の養子となり現在は子爵にまで出世した事から実子である辰を探している、そして、珠運に百両支払い、辰を連れ去ってしまいました。珠運は愛する人を失った事へで自分の甲斐性がない事や世の中の不条理に思い悩み、子爵令嬢に相応しい彫刻家になる事を決意します。その始めとして辰を模した仏像の彫刻を彫りはじめ、今まで無かった位に素晴しい作品が完成します。その晩、珠運は辰の夢を見ましたが、その姿は仏像よりも遥かに美しかった事から、翌日から又、その美しさを求め彫刻を彫りはじめ、遂に本当に美しい像が完成します。宿屋の主人から須原宿を去ってもっと見聞を広めた方がよいとの勧めがあり、真意を聞くと、新聞を渡され、それを読むと岩沼子爵の令嬢(辰)、業平侯爵と結婚との記事が書かれていました。珠運の心は乱れに乱れ、何が現実で何が夢なのかも分からなくなり、どうにも成らない自分に対しても情けなり、ただただ泣くだけでした。すると、どういう訳か美しい女性が珠運を温かく包み込み、辰と思い込んだ珠運も強く抱きしめました。すると、珠運は大変幸福な気持ちになり、その女性が本物の辰なのか、彫刻した木像なのかは実はどうでも良い事に気付き、ただ心と心だけが繋がっていれば恋というものは成就するという事を悟ったという話しのようです。

・徳利屋奈良井宿脇本陣、旅籠、露伴宿泊地
・須原宿・露伴の宿泊地。「風流仏」の文学碑。
・大和屋・須原宿で江戸時代から桜の花漬を製造販売。露伴の「風流仏」で登場。
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