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藤屋旅館(長野市)概要: 藤屋旅館は長野県長野市大字長野に位置する和様折衷の旅館建築です。
藤井家の祖は上方出身とされ、豊臣秀吉によって京都の方広寺大仏殿へと遷された善光寺の本尊が、慶長3年(1598)に信濃善光寺に戻った際、当地に同行したと云われています。
寛永14年(1637)には藤井伊右衛門家が醸造業である「よしのや」を創業、慶安元年(1648)に藤井平内がその分家として当家を興し宿泊業を創業、屋号「藤屋」を掲げ代々平五郎を襲名しています。
当地は善光寺の門前町であると同時に北国街道の宿場町、善光寺宿でもあった為、参拝者や旅人、物資運搬業者などが利用し、大いに賑わいました。
当時の善光寺宿の旅籠は30軒程とも云われ、藤屋は各宿と客引きの禁止を取り決め、当宿の風紀を正し宿場の格式の保持に尽力したとされます。
江戸時代初期、善光寺宿の本陣は松井家と羽田家がその職を担っていましたが、半ば頃には藤井家と中沢家、坂口家が交互に努めるようになり、安永5年(1776)からは藤井家が単独となっています。
本陣とは大名や公家など身分が高い人物だけが利用を許される施設で、建物も格式がある意匠が採用され宿場内の有力者がその任にあたりました。
特に、北国街道を参勤交代で利用する加賀藩主前田家は藤屋旅館を本陣として宿泊や休息で利用していました。
弘化2年(1845)に前田家が藤屋旅館で休息をとっていた際、家臣の一人が当家の隠居を殺傷する事件が発生しています。
一方、弘化4年(1847)に発生した善光寺地震で大きな被害を受けると、加賀藩から「御殿普請」用に150両が与えられています。
又、松代藩主真田家や高田藩主榊原家も藤屋旅館を利用し、真田家は戊辰戦争の際には休憩をしています。
享和2年(1802)10月8・9・10日には第3次測量で善光寺へ参詣し犀川大水により川留逗留を余儀なくされた伊能忠敬は本陣である藤屋平左衛門家に宿泊しています。
文化11年(1814)4月29日には第8次測量で善光寺宿を訪れた伊能忠敬は善光寺へ参詣し本陣である藤井平五郎家に宿泊しています。
文政10年(1827)に発刊された「諸国道中商人鑑」には「藤屋」として記載され、中山道と善光寺までの道程が案内されています。
この事からも藤屋は古くから善光寺宿の中心的な存在で明治時代に入り宿場制度が廃止され本陣から旅館業に変ってからも格式のある老舗旅館「對旭館」として伊藤博文、福沢諭吉、乃木希典、渋沢栄一、高村光雲、有栖川宮などを受け入れています。
現在の藤屋旅館の建物は善光寺の参道の拡幅工事に伴い新築したもので大正12年(1924)から大正13年(1924)にかけて工事が進められ、近代的な高さと防火の機能が求められました。
構造は木造3階建、建築面積967u、外壁は1階が鉄網コンクリート貼、2・3階は化粧タイル貼、設計施工は越前出身の宮大工、師田庄左衛門が手懸けています。
全体的に柱や梁桁など構造体を強調するような意匠構成で玄関ポーチに採用された円柱やその上部の植物を模ったイオニア式風のデザインとなっています。
ポーチ上部に設けられらたベランダ風の手摺、屋号のレリーフ、中央パラペットのアールデコ風のデザインなどが正面性を演出し遠方からも目立つような工夫が見られます。
藤屋旅館は大正時代に建てられた和様折衷の旅館建築の遺構として貴重な存在で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から、平成9年(1997)に国登録有形文化財に登録されています。
又、当家で祭られている布袋尊は有賀幸作の生家に伝えられていたもので善光寺七福神の一つに数えられています。
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