男滝女滝(南木曽町吾妻)

  長野県:歴史・観光・見所木曽路(中山道)大妻籠>男滝女滝

概要・歴史・観光・見所
男滝女滝(南木曽町)概要: 男滝女滝(長野県木曽郡南木曽町)は古くから中山道(木曽路)の名勝として知られ天保6年から天保8年(1835〜1837年)頃、浮世絵師である渓斎英泉と歌川広重の合作で描かれた「中山道六十九次」の英泉が担当した「馬籠駅・峠より遠望之図」にも描かれてます。江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」では馬籠宿から妻籠宿に至る挿絵に「男滝」と「女滝」が描かれています。吉川英治作の小説「宮本武蔵」の舞台でもあり、宮本武蔵とお通との逢引場所として描かれています。男滝女滝は景観的に素晴しい事から昭和49年(1974)7月12日に名称「旧中山道男滝女滝」として南木曽町指定名勝に指定されています。

【 男滝・女滝(倉科様)伝説 】-男滝・女滝には次のような伝説が伝えられています。天正14年(1586)、羽柴秀吉は近衛前久の猶子となった事を受けて関白宣下を受け、同年、正親町天皇から豊臣の姓を賜り、同年、太政大臣に就任した事で豊臣政権が成立しました。これにより、秀吉に従った諸大名は少しでも自分の家に有利になるようにこぞって御祝の品を秀吉に届けようとしました。そのような中、松本城(長野県松本市)の城主小笠原貞慶は世にも珍しい金色に輝く鶏を献上しようと、家臣である倉科七郎左衛門朝軌に命じて秀吉の下に遣わせました。朝軌は小笠原家の命運が懸かる大事な任務だった為、目立たぬような服装と、数人の配下の者を連れ立って松本城下を出立し木曽路を南下して大坂に向かいました。しかし、その情報を掴んだ山賊一味は朝軌一行を付け狙い、朝軌が妻籠宿で宿泊した際に、宿の主人に大金を掴ませ、朝軌を暗いうちに出立させ、男滝・女滝付近で襲撃する計画を画策しました。

宿の主人は山賊に言われた通り、夜明け前に一番鶏を鳴かせて、出立を急かせると、疑問を感じながらも朝軌一行は妻籠宿を後にしました。一行が男滝・女滝に差し掛かった瞬間、茂み隠れていた山賊一味が一斉に切り掛り、朝軌一行は全員惨殺され、事もあろうか、金色に輝く鶏は籠を抜け出し女滝の滝壺に飛び込み姿を消しました。夫の死の知らせを聞いた倉科婦人は、急いで男滝・女滝まで来ると死体は既に処理され、夫の持っていた金袋(財布)だけが残されていました。婦人はその場に泣き崩れ、「夫の仇、夫の恨み粟の粒ほど崇れ!」と叫び、滝壺に粟の粒を投げ込むと、婦人の怨みの念を吸収した粟の粒が爆発的に増え滝壺を埋めてしまいました。数日後、滝壺が埋まったにも関わらず、そこから金色に輝く鶏の声が聞こえると決まって崖崩れや災害が起きた事から、妻籠宿の住民は倉科様の呪いと悟り、近くに倉科神社を創建し篤く弔うと、不思議と災害が鶏の声が聞こえなくなり災害も起こらなくなったと伝えられています。

上記と同様な別の伝説もあり、こちらは同じ倉科七郎左衛門でも松本城の城下で財を成した豪商で、宝比べがある為に大坂に向う途中に男滝・女滝付近で山賊に刺し殺されと、妻籠宿あたりから殺害の下りなどは略、上記と同じ内容となっています。ただ、妻は怨みの余り身投げした点は異なり、やはり、最後は倉科神社を創建され、怨みが鎮まったとしています。

男滝女滝:写真

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