真楽寺(御代田町)概要: 浅間山真楽寺は長野県北佐久郡御代田町塩野に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。 真楽寺の創建は用明天皇の時代(585〜587年)に浅間山(標高:2568m・上信越高原国立公園・日本の地質百選・日本百名山・花の百名山)噴火の鎮静を祈願する為に勅願により開かれたのが始まりと伝えられています。伝承によると長子である聖徳太子の勧めで仏教に帰依した用明天皇は、浅間山の噴火を鎮める為、勅使として栄曇という僧を派遣し浅間山の麓にある賽の河原の六地蔵付近で庵を設けて噴火鎮静の祈祷を行ったのが真楽寺の前身とされ、その後聖徳太子も父親の遺徳を偲ぶ為に当寺を訪れたと伝えられています。伝承の真偽は判りませんが、浅間山の噴火活動の記録的初見は、奈良時代に編纂された日本の歴史書である「日本書紀」の天武天皇14年(685)の条に信濃国に灰が降り注ぎ草木が枯れたとの記述があり、これを浅間山の噴火と推定されています。真楽寺の伝承とは100年程の開きがありますが、浅間山は古くから噴火を繰り替えしていた事から古代から信仰の対象となり当地でも奉斎や祈祷が行われていたと思われます。
平安時代後期の天養2年(1145)に現在地に境内を移し、以来、広く信仰を集め文治5年(1189)には源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)が浅間巻狩りの際、当寺を訪れ観音堂を寄進し自らの42歳の厄除けを7日間に渡り祈願したことから"頼朝厄除観音"との別称があります。真楽寺の境内には頼朝が愛馬の鞍かけたと伝わる鞍掛け石や、頼朝が梅の杖を地面に突き刺すと、根付たされる頼朝公の逆さ梅などが頼朝縁の史跡が点在しています。
真楽寺は江戸時代後期の天和年間(1681〜1684年)の洪水や宝永年間(1704〜1711年) の火災など度々災害により堂宇や寺宝、記録など大きな被害を受けましたがその都度再建され、寺領83石、10万石の格式、13坊、末寺36ヶ寺を有する大寺となり現在も多くの古建築物や寺宝を所持しています。真楽寺本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。観音堂は江戸時代初期に建てられた橦木造の御堂建築の遺構として貴重な事から御代田町指定文化財に指定されています。境内の芭蕉句碑は天保14年(1843)、芭蕉百五十回忌に小林葛古(小林四郎左衛門:信濃の俳人。明治13年没。)により建立されたもので「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」の句が刻まれています。
山門前にある大沼池は聖徳太子も立ち寄ったという由緒ある池で、浅間山の伏流水が湧き出る名水とされ、「甲賀三郎」伝説や「七尋芹」伝説が伝えられています。佐久三十三番観音霊場第4番札所(札所本尊:聖観音・御詠歌:浅間山なにおそろしと思うなよ いつも仏に大沼の里)。山号:浅間山。宗派:真言宗智山派。本尊:普賢菩薩、聖観世音菩薩、大日如来、歓喜天、阿弥陀如来。
【 甲賀三郎伝説 】−真楽寺の境内の一角にある大沼は浅間山からの伏流水により形成された清水で、信仰の対象にもなり甲賀三郎伝説の舞台にもなっています。甲賀三郎は浅間山の麓に住んでいましたが、戦での大功を妬んだ2人の兄が地下の世界に幽閉してしまいました(甲賀三郎は信濃国望月の領主である源頼重の3男とも、安寧天皇の後裔である甲賀権守諏胤の3男とも、近江甲賀出身とも云われています)。三郎は地下の世界を彷徨い何とか地上に出ると、真楽寺の大沼だったとされ、水面に自分の姿を映し出して見ると龍に変態していました。
一方、三郎の妻は夫が死んだと思い諏訪湖に身投げし、同じく龍になっていた事から、その話を聞いた三郎は急いで諏訪湖に赴き夫婦仲良く暮らしたとされ、三郎夫婦は龍神として崇められ後に諏訪大社の祭神である諏訪明神と呼ばれるようになったとも云われています。又、用明天皇の皇子である聖徳太子も真楽寺を訪れたとされ、大沼に自生する芹の美しさに心を打たれて引き寄せて御覧になり、何時しか「七尋芹」と呼ばれるようになったと伝えられています。
真楽寺の文化財
仁王門-17世紀後半-三間一戸,寄棟,茅葺,八脚単層門-御代田町指定文化財
金剛力士像-応永2年(1395)-御代田町指定有形文化財
三重塔-寛延4年(1751)-方12.5尺-長野県県宝
観音堂-寛文5年(1665)-橦木造,銅板葺,桁行5間,梁間3間-町指定文化財
神代杉-推定樹齢1000年・幹周10m-御代田町指定天然記念物
真楽寺の寺叢-御代田町指定天然記念物
|