信濃国分寺(上田市)概要: 信濃国分寺は長野県上田市国分に境内を構えている天台宗の寺院です。信濃国分寺の創建は天平13年(741)、聖武天皇が日本全国の安寧を願い各国に1寺づつ設置した国分寺の1つとされます。古代の上田市には信濃国府(後に現在の松本市付近に移ったと推定されています。)が置かれていた事から当地域が信濃国の行政、文化の中心だった事が窺えます。天慶2年(939)の平将門の乱で一帯は将門と従弟である平貞盛との戦場となり信濃国分寺の堂宇の多くは兵火により焼失しさらに朝廷の権威が失墜した事も重なり一時衰退します。
鎌倉時代に入ると信濃国分寺は鎌倉幕府に庇護されたようで、建久8年(1197)には初代将軍源頼朝の発願により三重塔が再建されるなど再興が図られ現在地に境内を移したと思われ現在の境内にも鎌倉時代に造営された石造多宝塔や五輪塔が現存しています。室町時代に入ると八日堂などと呼ばれるようになり蘇民将来信仰が広がると周辺住民の民間信仰の拠点として多くの参拝者が訪れるようになりました。詳細は不詳ですが信濃国分寺の境内がある塩田平では応仁元年(1467)には村上氏と海野氏の戦い、天文10年(1541)には武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍と海野氏との「海野平の戦い」、永禄から天正にかけ村上氏と武田信玄との争乱などが度々行われており、それらの兵火により信濃国分寺は大きな被害を受けたと思われます。
その後再興され慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは中山道を進軍した徳川秀忠軍に従軍した真田信之と本多忠政が西軍についた上田城(長野県上田市)の城主真田昌幸と会見した歴史的舞台にもなりました。所謂「第二次上田合戦」で信濃国分寺の会見では昌幸は一端和議に応じ、上田城を渡す事を条件として数日間の清掃又は家臣をなだめる時間を求め、時間稼ぎに成功したと伝えられています。江戸時代に入ると堂宇の再建などが進み、広く浄財を集めた様子が本堂勧進帳に記載され上田藩主の名も連ねています。中部四十九薬師霊場第1番札所。宗派:天台宗。本尊:薬師如来。
現在の信濃国分寺三重塔は源頼朝が発願したと伝えられる建物で工法などから室町時代中期のに再建されたと推定されています。三重塔の外観は唐様と和様の混成で内部が純唐様、当時の仏教建築を伝える好例として明治40年(1907)に国宝に指定され現在は国指定重要文化財に指定されています。信濃国分寺本堂は文政12年(1829)に発願され天保11年(1840)に起工、万延元年(1860)に竣工した建物で入母屋、妻入、桁行6間、梁間4間、母屋のまわりに1間の庇が付いて(単層裳階付、正面軒唐破風)外観が善光寺本堂(長野市)のように見えます。近世の寺院建築としては東信地方最大の木造寺院建物で江戸時代末期の特徴がよくあらわれている貴重なものとして平成9年(1997)に長野県の県宝に指定されています。
信濃国分寺の文化財
・ 上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗−1月7・8日−国選択無形民俗文化財
・ 三重塔−室町中期−三間三重塔婆、宝形、銅板葺−国指定重要文化財
・ 信濃国分寺跡−奈良時代−129,340u−国指定史跡
・ 本堂−万延元年−入母屋、桟瓦葺、妻入、唐破風向拝−長野県県宝
・ 巴形銅器−弥生時代−青銅製−上田市指定文化財
・ 蘇民将来符−室町時代−泥柳材、六角錐形−上田市指定有形民俗文化財
・ 八日堂縁日図−江戸初期−縦41p、横115p−上田市指定有形民俗文化財
・ 石造多宝塔−鎌倉時代末期−安山岩製、総高152cm−上田市指定文化財
・ 信濃国分寺勧進帳(11冊)−文政12年−松平伊賀守など−上田市指定文化財
・ 牛頭天王祭文(蘇民将来符の由来)−文明12年−上田市指定文化財
・ 灰釉四耳壺−鎌倉時代中期−古瀬戸、高さ35.5cm−上田市指定文化財
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