松本神社

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概要・歴史・観光・見所
松本神社(歴史)概要: 松本神社は寛永13年(1636)に明石藩(兵庫県明石市)2代藩主松平丹波守光重が明石城の城内に叔父である虎松(松平孫六郎永兼・松平康長と松姫の子供)の御霊を勧請して創建したのが始まりとされます。松本神社の前身である暘谷霊社は江戸時代初期に松平光重によって創建された神社です。祭神の1柱である松平庸直は戸田氏嫡流である松平康長の3男として生れ、長兄永兼と次兄忠光が亡くなった事から嫡子となり寛永9年(1632)に康長が死去した事で家督を相続し松本藩主に就任しています。

寛永10年(1633)に播磨明石藩に移封となり、寛永11年(1634)に江戸から上洛途中の東海道鈴鹿関で死没、嗣子が無かった為、末期養子として甥の松平光重(次兄松平忠光の嫡男)が家督を継ぎ、事無きを得ました。光重が家督を継いで数年後、明石城で夜な夜な妖怪が出没し悪事を働く事から、巫女に占わせると、幼少で亡くなった叔父である虎松(松平孫六郎永兼・松平康長と松姫の子供)が祟り、明石城の城内に祭れば守護神になると出た為、戸田松平家の祈願所である弥勒院に社を設けて祭ったのが始まりとされます。

当初は新宮と称していましたが、元禄11年(1698)に暘谷霊社に改め、享保11年(1726)に後裔である松平光慈が松本藩に入封する際、松本城内である当地に遷宮し、さらに第6代藩主松平光行が寛永9年(1797)に三河国田原(現在の愛知県田原市)から片宮八幡宮(祭神:一色義遠)、今宮八幡宮(祭神:戸田宗光)を勧請合祀、天保2年(1831)には7代藩主松平光年が共武大神社(祭神:松平康長)と淑慎大神社(祭神:松姫)を合祀して五社と呼ばれるようになりました。

藩主縁の人物が祭られていた事から家臣達も篤く信仰し、境内には寄進奉納された盥盤や石灯籠などが建立され信仰の篤さが窺えます。松本神社は創建以来、神仏習合し戸田松平家の祈願所である弥勒院(真言宗)が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺となっています。大正3年(1914)に松本城の内堀の傍らに鎮座し松本城鎮守社だった若宮八幡宮(松本城を築いた島立貞永)を境内に遷座、これを機に社殿の向きが西から南向きに改められ、昭和28年(1953)に社号を松本神社に改めています。松本神社は特に縁結びの神として信仰され現在でも多くの参拝者が訪れています。

片宮八幡宮の祭神である一色義遠は三河守護職一色義範の子供で、義遠の跡を継いだのが戸田松平家の遠祖とされる戸田弾正左衛門尉宗光である事から信仰の対象になったと思われます。今宮八幡宮の祭神である戸田弾正左衛門尉宗光は三河・尾張に版図を広げた、戸田氏中興の祖とされる人物で一色氏を強制隠居させ養子になる事を画策し正当性を得ると大きく勢力を拡大しています。共武大神社の祭り神は上記の松平庸直。淑慎大神社の祭神である松姫は徳川幕府初代将軍の徳川家康の養妹で戸田康長の正室、本来跡継ぎである永兼を産んだものの24歳の若さで死没しています。神社山門は切妻、桟瓦葺、一間一戸。

松本神社神門(神社山門)は切妻、桟瓦葺、一間一戸。拝殿は木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、平入、正面千鳥破風、桁行8間、梁間5間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り、妻面は真壁造白漆喰仕上げ。本殿は一間社流造、銅板葺。祭神:松平康長、松平永兼、一色義遠、戸田宗光、松姫、島立貞永。

松本神社:写真

松本神社
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