沙田神社(松本市)概要: 沙田神社は長野県松本市島立区三ノ宮字式内に鎮座している神社です。沙田神社の創建は大化5年(649)、当時の科野国(信濃国)の国司が勅命により勧請したのが始まりとされます。
延暦24年(805)から大同元年(806)、安曇野地方で朝廷に従わず住民に悪災をもたらした八面大王を東征する為、坂上田村麻呂が当地に派遣され、沙田神社に戦勝を祈願すると見事討ち果たす事が出来た為社殿を造営し神意に感謝したと伝えられています(八面大王については諸説あり一説には安曇野に侵攻した田村麻呂軍の悪逆非道の為、八面大王が立ち上がったが返り討ちあったとも。又、討伐したのは領主仁科家の家臣等々力氏の子息、田村守宮で八面大王も8人首領が率いる盗賊集団だったとも。何れにしても長野県北部には坂上田村麻呂と八面大王関係の神社や寺院が点在しています)。
沙田神社は朝廷からも崇敬庇護され仁寿元年(851)に社殿が造営、仁寿3年(853)に二条大納言有季を勅使として神位を賜り、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載され信濃国三之宮の格式を得ています(同じく安曇野市に鎮座する穂高神社も三之宮を称しています)。
元享年間(1321〜1323年)の兵火で本殿以外の社殿が焼失しますが、深志城(後の松本城)の城主島立右近貞永が再建しています。
沙田神社の境内は松本城からみると南西に当たる為、裏鬼門の鎮守として歴代松本城の城主から崇敬庇護され、戦国時代は小笠原政長が社領70石を寄進し、江戸時代は歴代松本藩主の祈願所として社領が安堵されています。
明治5年(1872)に郷社、明治34年(1901)に県社に列し明治40年(1907)神饌幣帛料供進に指定されています。
例祭の御柱祭は7年毎、卯、酉の年に行なわれる神事で古式を伝える貴重なものとして平成12年(2000)に松本市指定無形民俗文化財に指定されています。
沙田神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行8間、張間3間、正面3間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造板張り。本殿は神明造、切妻、銅板葺、平入。祭神は彦火々見尊・豐玉姫命・沙土煮命。
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