筑摩神社

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概要・歴史・観光・見所
筑摩神社(松本市)概要: 筑摩神社は長野県松本市筑摩に鎮座する神社です。銅鐘筑摩神社の創建は、延暦年間(782〜806年)に坂上田村麻呂が信濃国(現在の長野県)で反乱を起した八面大王に征伐を命ぜられると、霊夢に石清水八幡宮(京都府八幡市)の祭神が出現し、当社に参ってから信濃国に社殿を造営すれば勝利を得られるだろうと告げました。延暦13年(794)、田村麻呂が出陣の際、石清水八幡宮で戦勝祈願を行い、分霊を勧請して当社創建すると見事八面大王を討つ事が出来たとされ、その首を境内に埋め塚(飯塚)を築いたと伝えられています。ただし、石清水八幡宮は貞観2年(860)に清和天皇が社殿を造営した事をもって創建年としている事から年代的には矛盾があります。その後、境内付近(松本市)に信濃国府が遷府されると国府八幡宮と呼ばれ、信濃国の中心的な神社の1つとなり、祭祀なども司った総社的な立場を担ったと推定されています。

筑摩神社が何時頃から信仰を始めたのかは判りませんが、奈良時代に信濃国府が現在の上田市から松本市に遷されたと推定される事から同時期に勧請された可能性が高いと思われます。筑摩神社は信濃国一宮や総社、延喜式内社ではありませんが筑摩郡の名称を冠にする事からも当地では一番格式の高い神社だった事が窺えます(安筑両郡606社の総社)。一方、筑摩神社に伝わる由緒によると、創建は平安時代初期頃に征夷大将軍である坂上田村麻呂によるものと伝えられています。坂上田村麻呂が創建したと伝わる社寺は特に東日本に集中していますが、数百以上に上り殆どが伝説の域を出ないと思われます。基本的には歴史ある社寺も兵火や火事、水害などで文書記録等が失われ、後世補填した際に坂上田村麻呂の伝説が付け加えられる例も多く、現在真偽を確かめる術は無くなっています。長野県では八面大王と呼ばれる面妖な妖怪を、坂上田村麻呂が退治する伝説が残され、その際に戦勝祈願の為に勧請された、又は創建されたという社寺が多数存在します。

その伝説の元になったされる江戸時代中期の享保年間(1716〜1735年)に編纂された地誌、「信府統記」には田村将軍が延暦24年(805)に魏石鬼(八面大王)と呼ばれる鬼賊の討伐の命が出され、大同元年(806)に討ち取ったとしています。しかし、現在判る客観的な資料によると坂上田村麻呂は延暦20年(801)の遠征を終えるとその後の出兵の記録が無い事から「信府統記」で記載されている事柄は単に当時流布していた伝説を書き留めただけだったとも考えられます。一方、「仁科濫觴記」によると8人の首領を持つ盗賊集団が「八面鬼士大王」を名乗り悪事を重ねた為、延暦8年(789)に領主である仁科和泉守が家臣の田村守宮に命じて討ち取ったとあります。どちらかと言うと「仁科濫觴記」の方が真実味があり、これが正しければ筑摩神社は仁科和泉守の家臣田村守宮が創建した事になりますが、たぶんそういう事でもないのかも知れません。

しかし、筑摩神社と八面大王との関わりは古くからあったようで、境内の一角には八面大王の首が埋められたと伝わる塚があり、社号も地名ではなく「塚摩」が転じて「筑摩」と呼ばれたとの説があります。塚の上には八面大王の首を祭る頭神社が鎮座していたようですが、南北朝時代に兵火によって焼失しています。

八幡神は源氏の氏神だった事から平安時代後期は木曽義仲を筆頭とする信濃源氏の帰依を受けていたようです。鎌倉時代初頭の元暦2年・寿永4年(1185)に源頼朝の命により信濃国を知行国とした加賀美遠光(甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の4男)は2男である加賀美小次郎長清を当地に与え、長清が小笠原氏の祖となりました。筑摩神社は由緒上、石清水八幡宮(京都府八幡市)の祭神を勧請し創建している事から、源氏一族である小笠原氏は氏神として篤く庇護され社運が隆盛し、最盛期には境内には楼門が設けられ、拝殿までの参道の両側には社家の居宅で軒を連ねていたそうです。筑摩神社は南北朝の戦乱のなか永享8年(1436)に焼失し永享11年(1439)小笠原政康が社殿(現本殿−三間社流造、檜皮葺、旧国宝、現国指定重要文化財)を寄進しています。小笠原氏は信濃守護職を歴任するなど長く当地を支配しましたが、戦国時代に武田信玄の信濃侵攻により没落、江戸時代初期に松本藩主として復権を果たしたものの、数年で播磨明石藩に移封となっています。

小笠原氏改易以後も筑摩神社は歴代松本藩主から庇護を受け続け、社殿の営繕工事費などは藩費によって賄われ、特別な神社としての地位は保たれました。慶長15年(1610)には松本藩主石川康長により拝殿(入母屋、妻入、こけら葺き、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、長野県の県宝)が寄進されています。又、古くから神仏混合で別当には安養寺が担い「八幡宮」と称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により安養寺は廃寺、社号を「筑摩神社」に改め明治5年(1872)に県社に列しています。

筑摩神社境内には永正11年(1514)に小笠原長棟が寄進した旧安養寺の銅鐘(口径66cm、身高90.9cm)が残され、松本平最古の貴重なものとして「筑摩神社銅鐘」として昭和36年(1961)に松本市指定重要文化財に指定されています。筑摩神社が所有する陵王・納曽利面は鎌倉時代に制作されたもので、陵王面は縦30cm、横21.5cm、面奥15cm。納曽利面は縦23.8cm、横17.6cm、面奥15cm、当地方では最古の伎楽面として貴重な事から昭和36年(1961)に松本市指定重要文化財に指定されています。神門(神社山門)は切妻、銅板葺、一間一戸、四脚門、詳細は不詳ですが神仏習合時代の名残と思われます。祭神:譽田別命、息長帯比売命、多紀理比売命、狹依毘売命、多岐都比売命。

筑摩神社:本殿・拝殿・写真

大鳥居
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鳥居 神門 拝殿 本殿


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