浅間温泉(長野県松本市)・歴史:概要 浅間温泉(松本市)の開湯は不詳ですが、温泉街からは縄文時代の 遺物が発見されるなど太古から住民達からは利用されていたように思います。5世紀末には桜ヶ丘古墳(円墳:直径15m・副葬品である金銅天冠は長野県指定文化財)が築かれ、当時の浅間温泉には渡来人又は朝鮮と関係が深い豪族が支配していたと推定されています。記録的には日本書紀で白鳳14年(684)に天武天皇が「信濃に遣わして行官を造らしむ。蓋し束間の温湯に幸せんと擬すか」と記されており、この束間の温は筑摩の湯と同義で、筑摩の湯は浅間温泉のことではないかと推定されています(この当時の信濃国府推定地が浅間温泉と徒歩圏内だった事などが理由)。
又、万葉集(7から8世紀に編纂された日本最古の和歌集)にも「浅葉の里」、「麻葉の湯」が散見され浅間温泉の古称だったと思われます。一般的な浅間温泉の由来は天慶2年(939)、当時この地を支配した犬飼半左衛門が源泉を発見したとされ「犬飼の湯」と呼ばれたそうで少なくとも平安時代にはその存在が知られていたと思われます。現在の浅間温泉の鎮守である御射神社は文治2年(1186)に編纂された吾妻鏡に浅間社として記されている事から浅間の地名は鎌倉時代には定着していたと思われます。建武2年(1335)には信濃国府が戦乱で焼失し、浅間温泉に浅間宿を設け国司を迎えた事で一時期信濃の政治の中心となり多くの豪族や大名がこの地に訪れました。
江戸時代に入と松本城の城主となった石川数正が浅間温泉に別荘である「御殿湯(負傷により体が不自由となった三男康次の子である石川昌光を湯守として代々世襲した。現在の枇杷の湯)」を設けた事で家臣達も同様に別荘を設けて温泉街として形成され「松本の奥座敷」と呼ばれるようになりました。数正の跡を継いだ石川康長も浅間温泉に御殿を造営し、その際、手植えした松が残され、文禄4年(1595)には神宮寺の寺領を寄進しています。万治2年(1659)には安曇郡大野川に位置する大樋山から白銀(鉛)が数多く見つかった事から松本藩の藩主水野忠職は御殿や湯薬師の改修や天満宮の創建などを行っています。江戸時代後期に製作された諸国温泉功能鑑(温泉番付)には「信州浅間の湯」として西之方前頭に格付けされており当時から広く知られていた存在でした。明治時代に入ると正岡子規や伊東左千夫、与謝野晶子、竹久夢二などの多くの文人墨客が浅間温泉に訪れるようになりアララギ派結成の地とも言われています。
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