【 概 要 】−水野忠職は慶長18年(1613)、松本藩の初代藩主水野忠清と福寿院(前田利家の養女)との子供として生まれました。寛永11年(1634)に従五位に叙し、下出羽守に任官、正保4年(1647)に忠清の死去に伴い水野家の家督を継ぎ松本藩2代藩主に就任しています。大坂城代や碓氷関(群馬県安中市)と福島関(長野県木曽町)の女手形の発行事務を担っています。慶安2年(1649)には大規模な検地を実施、その他にも領内法度や百姓訴訟法の制定、飢饉の際には様々な農家保護の方策を施行しています。寛文8年(1668)死去、享年56歳、戒名:道樹院信誉上昌玄向、小石川伝通院(東京都文京区)に墓碑が建立されています(家督は水野忠直が継いでいます)。
水野忠職の松本藩の実績としては、慶安元年(1648)には京都妙心寺養賢院の竜天和尚を招いて護法山乾瑞寺を創建(竜天和尚は忠職の実弟とされ、養賢院には両者の生母である福寿院(戒名:福寿院殿性宣妙演尼大姉)が埋葬され墓碑が建立されました)、同年には小野神社(長野県塩尻市)に社領10石を寄進、承応3年(1654)には乾瑞寺に対し寺領として熊倉新田22石を寄進、同年には若一王子神社(長野県大町市)の本殿を大改修、明暦2年(1656)に焼失した極楽寺を現在地に遷し堂宇を造営、明暦3年(1657)には極楽寺の跡地に水野家の菩提寺である春了寺を遷し堂宇を造営しています。
水野忠職は万治元年(1658)には松本城の天守閣と城門の屋根瓦を葺き替える為、三州から瓦職人を招き岡田水汲に瓦を焼く窯を2基を造営、万治2年(1659)には安曇郡大野川に位置する大樋山から白銀(鉛)が数多く見つかった事から、浅間温泉に設けられた別荘である浅間御殿と温泉街の守護神である湯薬師を改修、さらに菅原道真の分霊を勧請し天満宮(松本市指定文化財)を創建、寛文3年(1663)には岡宮神社(松本市指定文化財)の社殿を造営、寛文8年(1668)には三才山御射神社秋宮に虚空蔵宮を再興、幟10本寄進しています。
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