【 概 要 】−石川康長は天文23年(1554)、石川数正と内藤義清の娘との子供として生まれました。幼少の頃は父親と共に徳川家に従っていましたが、天正13年(1585)に数正が徳川家とは対立関係にあった豊臣秀吉に出奔した為、康長も豊臣家の家臣となっています。文禄元年(1592)に発生した文禄の役で兵500名を率いて肥前名護屋城に入っています。一方、文禄元年(1592)又は文禄2年(1593)に数正の死去に伴い、石川家の家督を継ぎ松本藩の藩主に就任しています。数正は10万石を領していましたが、康長は次弟康勝に1万5千石、末弟康次に5千石を分知し8万石となっています。
康長は松本城の築城工事と城下町の整備を数正から引き継ぎ、石高を見合わない程の壮大な城郭を竣工させています。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは豊臣家を見限り東軍として行動し、徳川秀忠に従軍しています。第二次上田合戦にも参加し、上田城の支城である冠者ヶ嶽城を攻めたものの、真田家の家臣である小山田壱岐守が堅守し敗北しています。功が無かったにしろ本来ならば加増があってもおかしくない事象ですが本領安堵に留まっています。慶長18年(1613)、大久保長安事件に連座して改易、佐伯藩主毛利高政に預けられています。寛永19年(1643)死去、善教寺に葬られています。
石川康長は社寺の保護も行い、浄林寺(長野県松本市)を数正の菩提寺として整備し御霊社を創建、文禄元年(1592)に本立寺の寺地の年貢と諸役を免除、文禄4年(1595)には日置神社(生坂村)に禁制を発布、同年には浅間神宮寺(浅間温泉)に寺領3貫600目を寄進、文禄年間(1593〜1596年)に熊野神社(長野県安曇野市)に社領4石を寄進、宗林寺(長野県安曇野市)を数正の菩提寺として堂宇を造営、慶長9年(1604)には満願寺に寺領を安堵、慶長10年(1605)には安楽寺に寺領を安堵、同年には兎川寺の寺地門前を安堵、慶長11年(1606)には正行寺の寺領を安堵、慶長13年(1608)には満願寺の寺領を安堵、慶長14年(1609)には筑摩神社(長野県松本市)の別当に諸役を免除、慶長15年(1610)には筑摩神社の拝殿(長野県:県宝)を造営、同年には岡宮神社に社領を寄進しています。
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