野沢温泉(長野県:犬養御湯)・歴史:概要 野沢温泉の開湯には諸説あり奈良時代(724〜748年頃) に行基菩薩が発見したとも(近くにある小菅神社にも行基の伝説が残されています)、養老年間(717〜724年)に猟師が巨熊の射抜いた際、熊が湯浴みをしたのを見つけたのが始まりとも、山伏が修行の際この地を訪れ発見したとも伝えられています。記録的には文禄9年(1272)に「湯山村」として記載があり、湯山は温泉を連想させる事から既に温泉地としての認識がなされていたようです。順徳天皇の御代(1210〜1221年)には朝廷が選出した日本三御湯(名取御湯:秋保温泉・信濃御湯:別所温泉・犬養御湯:野沢温泉)に数えられました(諸説あり犬養御湯:野沢温泉ではなく三函御湯:いわき湯本温泉を上げる説もある)。
犬養という地名の起こりは諸説ありますが安閑天皇2年(538)、数多くの屯倉が設置される事となり、その屯倉を犬を用いて守護する為、犬養部が設置され、設置された地域が時代共に犬養や犬飼などの地名になったと推定されています。屯倉は全国各地に設置された事から、地名も各地に散見され、長野県内でも数多く存在しています。詳細は勉強不足の為に分かりませんが江戸時代に編纂された「信濃地名考」で「犬養の湯」を野沢温泉に比定しているようで、確かに野沢温泉の周囲には犬飼の地名があります。大きな根拠としているのは、寛弘3年(1006)頃に成立したと思われる「拾遺和歌集」の巻七の「犬養の御湯」に「鳥の子は まだひなゝがら立ちいでぬ かひのみゆるは 巣守なりけり」の歌が記載されている事に注視し、この歌の「鳥の子」は鷹飼部と関係が深いと解釈して、「犬養の御湯」がある場所は犬養部と鷹飼部の両方がある場所に違いないという結論に至り、野沢温泉の周囲にはその両方を満たす痕跡がある事から比定する根拠としています。この論が現在では定着したようですが、現在の長野県松本市にあたる信濃国筑摩郡辛犬郷では辛犬甘氏と呼ばれる渡来系の氏族が土着して、その後、犬飼氏を称する土豪にまで発展します。その一族と思われる犬飼半左衛門が天慶2年(939)に現在の浅間温泉を発見し、当時は「犬飼の湯」と呼ばれていたそうです。土地柄的には浅間温泉の方が信濃国府推定地に近いなど朝廷とも関わりが深いと思われますが、野沢温泉の源泉がよほど良く天下に知られていたのかも知れません。
野沢温泉は弘治3年(1557)には温泉地として周辺に聞こえる存在となり、天正12年(1584)には野沢菜発祥の地とされる薬王山健命寺が南室正舜により創建されています。寛永年間(1624〜1643年)に当時の飯山藩主松平忠倶が湯屋(別荘)を設けて飯山藩(藩庁:飯山城)の保養地として本格的な整備を行われ、江戸時代初期には24軒の湯宿が軒を連ねた町並みが形成されていたそうです。その後に一般の人々にも湯治を許可した事から湯治場として多くの人達が利用する事になりました。 明治時代に入ると2万人以上の湯治客が訪れるようになり全国的にも知名度が広がっています。
野沢温泉の特徴の1つが、地元の湯中間と呼ばれる組織13軒(上寺湯 ・真湯・横落の湯・滝の湯・十王堂乃湯・麻釜の湯・新田乃湯・河原湯・中尾乃湯・秋葉乃湯・まつば乃湯・大湯)が共同温泉を管理し、地元の人だけでなく観光客にも開放されています。外湯巡りが盛んに行われている事で、野沢温泉の象徴的な存在でもある「麻釜」では現在でも、野菜や卵を茹でたりする事に利用され(往時は「麻」を茹でて皮を剥いでいた事から「麻釜」と呼ばれるようになった)、共同温泉の中には選択用の湯船が併設されている所もあり、現在でも温泉と生活が密着している事を窺わせます。又、野沢温泉は野沢菜発祥の地として知られ、宝暦6年(1756)、当時の健命寺住職晃天園瑞が京都から天王寺蕪の種を持ち帰り蒔いたところ現在の野沢菜に変異したと伝えられています(諸説あり:天王寺蕪はアジア系なのに対し、野沢菜はヨーロッパ系に近いとされ遺伝的には近隣の伝統野菜に近い事からカブの変種と考えられています)。
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