高島城(諏訪湖)概要: 当地域は古くから諏訪大社の祭祀を司る大祝家を祖とする諏訪氏が支配してきましたが、武田家の諏訪侵攻により没落後は徳川家に頼っていました。天正18年(1590)、当時の当主諏訪頼忠は家康の関東転封に伴い退去し変って豊臣秀吉に従った日根野高吉が2万7千石で諏訪領に入封しました。高島城は文禄元年(1592)から築城が開始され慶長3年(1598)で竣工、諏訪湖湖畔に突き出した小島に築かれた連郭式平城として整備されました。
高島城は諏訪湖と周辺の河川を巧みに利用し本丸からは二の丸、三の丸、衣の渡郭と一直線上に配置、さらに北側に開削された甲州街道からは1本道で城下町が形成されました。本丸には藩主の御殿や庭園、藩庁の他、高島城の象徴でもある3層5階の天守閣が設けられ、二之丸には家老屋敷や貯蔵庫、馬場などがあり、三之丸にはやや身分が下がる家老屋敷と御勘定所などが設置されました。
高島城には天守閣の他、櫓8棟、城門6棟と石高の割りには充実した施設が計画され、さらに湖畔に接し地盤が弱かった事から築城工事はかなり難航したと伝えられています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当然東軍に与した諏訪氏に功があり同じく2万7千石で諏訪領に復権し以後、10代諏訪氏が高島藩の藩主を歴任して明治維新を迎えています。
当地は周囲を山に囲われる独立した地域で江戸や大坂などの主要都市から離れていた事から要人の収監地とも考えられ本丸の南側には南丸が新たに設けられ松平忠輝(※1)や吉良義周(※2)が軟禁されました。高島城は築城当初、「浮城」との別称がある要害堅固の城でしたが江戸時代に入ると諏訪湖の湖畔の埋め立て事業が推進された為、湖岸からの距離が次第に離れていったそうです。明治時代に入ると高島城は廃城となり多くの建物は、破棄あるいは払い下げとなり、石垣だけの城跡になりましたが、現在は高島公園として整備され、天守閣や隅櫓、大手門、塀などを復元、御川渡御門(御川戸門)跡に旧三之丸御殿裏門を移築しています(諏訪氏の菩提寺である温泉寺には城門と能舞台が、常光寺には御殿門が移築されています。)。高島城は松江城(島根県松江市:宍道湖)、膳所城(滋賀県大津市:琵琶湖)と共に日本三大湖城に数えられています。
【 高島城三之丸御殿裏門:概要 】-現在、高島城本丸御川渡門跡に移築されている御殿裏門は三之丸御殿の裏門として建てられた建物です。高島城三之丸は案内板によると「衣之渡川と中門川(三之丸川)との間が三之丸で、道から東には周囲を掘をめぐらせた三之丸御殿があり、藩主が来て祭事をしたりくつろいだりした。八詠桜、常盈倉もこの一郭にあった。道から西には家老三之丸千野家の屋敷があって三之丸様と呼ばれ、その北のつづきには牛山、前田二氏の屋敷があった。明治維新直後、三之丸御殿は前藩主の居所となって東御殿と呼ばれ、家老の屋敷は藩知事の居所になって西御殿と呼ばれた。 諏訪市教育員会」とあります。
高島城は明治4年(1871)の廃藩置県により高島藩が廃藩となり、一時、高島県の県庁施設として利用されましたが、同年に筑摩県に吸収された為廃城となり、その後は順次破却、払い下げが行われ明治8年(1875)には天守閣も取り壊されています。上記の案内板のように、三之丸御殿は旧藩主の居宅として利用された為、御殿裏門も取り壊しを免れたと思われます。その後、他所に所有が遷り、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈を受け、現在地に移築されています。高島城三之丸御殿裏門の形式は切妻、銅板葺き、三間一戸、潜り戸付。
【 高島城城門:概要 】-常光寺(長野県塩尻市片岡北熊井:真言宗智山派の寺院)の山門は高島城の城門とされ、明治4年(1871)に高島城が廃城になった際に払い下げられ当地に移築、当初は2層の城門だったそうですが、上層部が撤去され寺院の山門風に改造されたと伝えられています。形式は切妻、桟瓦葺き、三間一戸、棟門、向かって左側潜戸付。
補足
(※1)松平忠輝−徳川家康6男。家康とは不仲で、大坂の陣後、高田藩を改易、高島藩預かりとなった。菩提は城下にある貞松院に埋葬されました。
(※2)吉良義周−上杉綱憲の次男。吉良家を相続したものの赤穂事件により改易、高島藩主諏訪忠虎預かりとなった。菩提は城下に近い法華寺に埋葬されました。
薬医門を簡単に説明した動画
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