白川阿古多丸

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白川阿古多丸・概要: 平安時代中期の延長年間(923〜931年)、京都の北白川を宿直して護衛する職を担っていた少将頼永(又は、重頼)と呼ばれる人がいました。頼永は40歳を越えても子宝に恵まれなかった事から、日頃から信仰していた御嶽神社に子宝祈願を行ったところ、見事念願成就し男女の子供を1人ずつ得る事が出来、姉を利生御前、弟を阿古多丸と名付け大切に育てました。しかし、利生御前が6歳の時に正室が死去した為、後妻として岩永姫(又は、北の方)を迎えると、岩永姫(又は、北の方)は跡継ぎとなる阿古多丸を憎むようになり、事ある毎にいじめ抜くようになりました。阿古多丸は長くいじめに対して耐えていましたが、15歳(10歳の説もあります。)になり元服が済むと、叔父で奥州に住している中納言氏家を頼り京都を離れました。阿古多丸は木曽路を北上し自分の縁のある御嶽神社を参拝してから奥州(現在の東北地方)を目指しましたが、まだまだ長旅に耐える体力が備わっておらず、板敷野(地名)で遂に力尽き「この山に 捨つる命は おしからで あかではなれし 父ぞ恋しき」の辞世の歌を残し亡くなってしまいました。頼永(又は、重頼)と利生御前は阿古多丸の墓を参ろうと同じく木曽路を北上し、その墓を参ると利生御前は、「先たつも 後るも同じ 草の露 何れの秋ぞ あはで果つべき」の辞世の歌を残し自害して果てました。頼永(又は、重頼)も2人の子供を亡くした衝撃に耐え切れず、2人の葬儀を終えるとやはり自害して果ててしまいました。その話を聞いた岩永姫(又は、北の方)も京都から急いでこの地まで赴くと、ようやく自分の愚かさに気付きやはりこの地で自害してしまいました。村人はこの親子を哀れと思い、阿古太丸の御霊を継子岳に祭り、岩永姫(又は、北の方)の御霊を継母岳にそれぞれ祭ったと伝えられています。

同じような伝説ですが内容が少し異なるものとしては、頼永と利生御前は、この地で果てた阿古多丸の御霊を御嶽山に祭る為、山頂を目指しましたが、利生御前は黒沢口御嶽山七合目で腹痛により病死(高山病?)、頼永も動けなくなりますが、神の遣いと思われるライチョウが出現し山頂まで導いてくれました。これにより、御嶽山は七合目より上が女人禁制になったと伝えられています(その後、8合目に金剛堂:女人堂が設けられ、そこまでは登れるようになったそうです)。

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※「木曽路(中山道):歴史・伝承・伝説」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論が多い為、参考にする場合は自分で現状や資料などで確認してください。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。