お六櫛伝説

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お六櫛・概要: 江戸時代中期の享保年間(1716〜1735年)、木曽路(中山道)の宿場町の薮原宿(長野県木曽郡木祖村)にお六という大変美人な町娘が住んでいました。その評判は周辺の宿場町にも広がり、結婚を求められる事もしばしばでした。しかし、お六は原因不明の頭痛に苛まれ、結婚どころか、恋愛する事も出来ず、終には寝込むようになりました。名医と呼ばれる医者に見せてもいっこうに回復に向わなかった事から、日頃から信仰していた御嶽山神社に平癒祈願する為に、酷い頭痛を堪えて御嶽山に登拝を繰り返しました。丁度満願の日を迎えた夜、お六の霊夢に御嶽山神社の祭神である「御嶽大神」「三笠山大神」「八海山大神」の三神の化身が出現し、「お六よ、ミネバリの木で櫛を作って髪をすいてみよ、さすれば、お前の頭痛もやがて消えるであろう」と告げ姿を消しました。お六は早速御告げに従い、鳥居峠に自生していたミネバリの木から櫛を削り出し、髪をすいてみると日を追う毎に頭痛が消え元気な体を取り戻しました。お六は自分だけ幸福を得るのは御嶽山の神の意を半減させてしまうと悟り、頭痛に悩む女性の為に櫛を作り続け、何時しか薮原宿の名産として広く知られるようになったと伝えられています。

一方、多少異なる印象を持つ伝説も伝えられています。それによると、元禄年間(1688〜1704年)、お六は御嶽山神社の祭神の御告げにより、ミネバリの櫛が頭痛に効く事が分かったものの、自分で作る事が出来なかった為、妻籠宿の櫛職人で同じ御嶽山の信者だった庄助に依頼しました。庄助が誠心誠意を込めたミネバリの櫛は効をそうし、お六の頭痛が回復すると、それが縁でお六は庄助の息子と結婚し妻籠宿に輿入れしました。三人は協力して「お六櫛」を製作し多くの女性の頭痛から解放しようと努力を重ねた結果、妻籠宿は「お六櫛」の一大生産地として広く知られるようになり大きな富を得る事が出来ました。ミネバリは薮原宿周辺のものを利用していた為、薮原宿の住民は常々苦々しい思いを募らせていましたが、時代が下がったある日、皆で相談し、妻籠宿の職人の下に間者(現在でいう産業スパイ)を送り込みミネバリの櫛の製造技術を盗ませる事に成功しました。薮原宿でもミネバリの櫛の製作がはじまりましたが、全く同じミネバリの櫛でも薮原宿の方が模倣品という評価を受け続けました。そこで、上記の伝説を意図的に流布させ、薮原宿の方が元祖のミネバリの櫛として宣伝しました。その後、ミネバリの櫛の発祥地は薮原宿という事が定着し、職人や生産量も他を圧倒する一大生産地となったと伝えられています。

薮原宿に境内を構えている極楽寺には「お六」の位牌が安置されています。

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※「木曽路(中山道):歴史・伝承・伝説」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論が多い為、参考にする場合は自分で現状や資料などで確認してください。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。