蛻庵稲荷(木曽町):伝説

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蛻庵稲荷・概要: 木曽路(中山道)の宿場町である福島宿(長野県木曽郡木曽町)に境内を構える興禅寺には蛻庵稲荷が祭られています。蛻庵稲荷の伝説には細かな点で差違がありますが、概ね次ぎのように伝えられています。

戦国時代、飛騨国の領主三木秀綱(姉小路秀綱)は、1匹の白い子狐を大変可愛がっていました。子狐は奥方や若君にも可愛がられ、特に若君とは良い遊び相手でもありました。天正13年(1585)、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻し、三木家の居城である松倉城(岐阜県高山市)は落城、秀綱は自刃、奥方と若君は行方が分からなくなり、子狐は途方に暮、なんとか信州諏訪に流れ着き、人の姿に化け諏訪家に仕える千野兵庫(高島藩では江戸時代中期に同姓同名の家老がいますが、関係性は不詳?)の家に住み込みで働く事になり、名を蛻庵と名乗りました。

蛻庵は千野家でも大変良く働いた為の皆から好かれましたが、暫くすると、三木秀綱の若君が出家し桂岳和尚と名を改め木曽の興禅寺の住職になったとの噂話を耳にするようになりました。蛻庵は居ても立ってもいられなくなり、千野家で暇を貰い、木曽の興禅寺の桂岳和尚の下に馳せ参じ小坊主として弟子入りし身の回りの世話などをしました。特に飼われていた時の子狐とは名乗りはしませんでしたが、桂岳和尚に近くに居て御世話をする事が蛻庵にとって何よりも幸せな事で一生懸命尽くしました。本当のところ桂岳和尚は蛻庵の正体を知っていましたが、知らない振りをした方が御互い良いだろうと考え自然に振舞っていました。

ある時、桂岳和尚は母親も子狐を可愛がっていた事を思い出し、3人で一緒に住むのも良かろうと思い、蛻庵に母親の居る安国寺(岐阜県高山市)から興禅寺に連れて来て欲しいと書状を持たせ使いに出させました。桂岳和尚は猟師は日頃から動物を見ている事から蛻庵の匂いや所作から正体がばれるのを危惧し、蛻庵にもし、宿泊する事になったら、猟師の家に絶対に泊まってはいけないよと言伝を添えました。蛻庵は奥方に会える事を楽しみで、楽しみで堪らなくなり、夜になると何の警戒もせず日和田の村の一軒の民家に宿を求ました。すると、運悪く、そこの家は猟師の家だったのです。猟師は蛻庵の何気ない所作から人間ではないと悟り、銃口から覗けば正体を見破る事が出来る「国友」と呼ばれる鉄砲を持ち出し覗いてみると、そこには白い狐の姿が映りました。蛻庵が寝静まった事を確認した猟師は一発で仕留め、蛻庵は命を失いました。

蛻庵の服の中からは興禅寺の桂岳和尚の書状が出てきた為、これはまずい事になったと猟師は思いましたが、家人にかん口令を敷き何事もなかったように振舞いました。すると、日和田の村に災いが頻発するようになった為、白狐(蛻庵)の祟りと悟り、猟師は興禅寺の桂岳和尚の下に赴き正直に事の顛末を話しました。桂岳和尚は嘆き悲しみましたが、蛻庵を悪霊にしてはならいと思い、興禅寺の境内に祠を設けて蛻庵の霊を慰め祭ると不思議と日和田の村に災いも起こらなくなりました。日和田の村の村人は桂岳和尚への感謝の念と、蛻庵の祟りを恐れて多くの家が興禅寺の檀家になったと伝えられています。

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※「木曽路(中山道):歴史・伝承・伝説」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論が多い為、参考にする場合は自分で現状や資料などで確認してください。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。