岩出観音・概要: 岩出観音(長野県木曽郡大桑村須原)は木曽路(中山道)の宿場町である須原宿の外れ、橋場集落に位置しています。丸山観音(長野県木曽郡木曽町)、岩華観音(長野県木曽郡木曽町)と共に三大馬頭観音に数えられ木曾街道六十九次版画の「伊奈川橋遠景」にも描かれています。現在の観音堂は定勝寺19代住職が江戸時代後期に再建したもので清水寺(京都府京都市東山区清水)と同じ様形式である懸崖造りが印象的です。
伝説によると橋場集落で、年老いた馬沓の職人が住んでいました。ある日、中山道を利用する武士が職人の店を訪れ、馬沓を求ましたが、あいにくその日は片足分しか無く、丁寧に断ったものの、それでもと武士は片足分を求め去っていきました。職人は片足だけだと力が平等に伝わらず怪我や負担が重くなる事を知っていたので、馬の身を案じると共に、自分の職人としての配慮が欠けていた事を恥じ、急いでもう片方を作り、武士を追いかけました。大島の曲がり角でようやく追いついて馬沓を渡すと、武士は年老いた職人に心を打たれ、多大な代金を支払おうとしましたが、逆に職人は自分のおろかさを語り代金を受け取らず立ち去ろうとしました。すると、武士はその心意気は天晴れな事であるとし、近くに落ちていた板の切れ端に筆を取り「馬頭観世音菩薩」と書き込むと職人に代金の代わりとして手渡し、この板はただの板では無い、信じて信仰すれば幸運を授かる事が出来るだろう、と語り去っていきました。職人は半信半疑ではありましたが、早速、神棚に掲げ熱心に手を合わせていると、不思議な事にその板が神々しい光を放つようになりました。職人は、この板は個人で所有するものではないと悟ると、妙心寺(京都市右京区花園:臨済宗妙心寺派大本山)の住職に事情を話し、その助言を持って観音像を彫刻し、胎内に板を治め、一宇を設けて本尊として迎え入れたと伝えられています。
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