義仲の硯水

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木曽義仲・概要: 平安時代末期の治承4年(1180)4月、後白河天皇の第3皇子以仁王は、平家が事実上朝廷を掌握した事を受け、その異を訴えた「以仁王の令旨」を発布し、平家打倒を全国の武将に呼びかけました。同年9月、幼少時に木曽谷の中原兼遠に密かに預けられ、立派な若武者に成長した源義賢の2男木曽義仲は居館である義仲館に氏神として勧請された八幡宮(現在の旗挙八幡宮)の前で旗挙を宣言し打倒平家を旗印に一路平家宗家が居を構える京都を目指しました。

義仲の硯水・概要: 義仲の硯水とは、義仲が京都に進軍途中で鳥居峠に差し掛かった際、日頃から信仰していた御嶽神社の遥拝所があった為、戦勝祈願を奉納する為に、大夫坊覚明に願書を認したためさせる際、利用した清水の事です。当時は清水(硯水)の近くに大きな柳の木があったので、義仲はその枝を1本引きちぎって、その清水の傍に突き刺すと、私の平家打倒の念願が成就した際には、この枝が根付き、元の柳の木より大きく成長するだろう、と高らかに宣言したそうです。

義仲は平家を京都から追い出し、一時朝廷を掌握しましたが、その後、源頼朝との確執から追討を受け、さらに朝廷も頼朝側に転じた為、四面楚歌となり、討ち取られたとも自刃したとも云われています。義仲の夢とは異なり、硯水近くに差した柳の枝は根付き、大きく成長し近年まであったとも云われています。

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