十二神社(長野市)概要: 十二神社は長野市鬼無里字中田に鎮座し市野瀬組の産土神として信仰されていきた神社です。十二神社の創建は不詳ですが、伝承によると十二神社の目前に広がる谷は太古の昔湖で、対岸にある大道飯縄社から十二社まで船で行き来をし戸隠へ参拝したと伝えられています。境内にある槻木の巨木は"船繋ぎの樹"と呼ばれ当時、この樹に船を繋いでいたそうで十二神社の定紋が帆船を模った形をしていたり、両部鳥居が"波よけの鳥居"と呼ばれていたりしていたそうです。この伝承は古くから言い伝わったもので寛政元年(1780)には長国寺住職千丈実巌がこの伝承を聞き「傳聞盤古代 山聳燗泥中 曾有停船客 今留繋纜蹤 藤縄掛神木 雲氣接竜宮 堪感滄桑変 誰能究劫空 」の詩を詠んでいます。
千丈実巌は松代藩中興の名君とされる6代藩主真田幸弘が安永8年(1779)に真田家の菩提寺である長国寺に招聘した曹洞宗の名僧で「幽谷餘韻」や「四六文鑑」などの著書があります。古くから神仏習合し「十二大明神」と称してきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令を経て、明治12年(1879)に現在の社号である「十二神社」に改めています。
現在の十二神社の本殿は安永8年(1779)に造営されたもので、一間社流造、こけら葺き、外壁は真壁造板張り、棟梁:松本総左衛門、江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から平成17年(2005)に長野市有形文化財に指定されています。拝殿は江戸時代後期の天保11年(1840)に造営されたもので、木造平屋建て、切妻、銅板葺き、平入、桁行3間、張間2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造板張り。覆い屋は天保11年(1840)に造営されたもので、木造平屋建て、切妻、銅板葺き、妻入、桁行1間、張間1間、外壁は真壁造板張り。神楽殿は木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行5間、張間3間、正面吹き放し。祭神:国常立尊。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長野市教育委員会
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