奥社(戸隠神社)概要: 戸隠神社奥社は戸隠五社(奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社)の1社で創建は第八代孝元天皇の五年(紀元前210年)、天照大神が隠れた天岩戸を開け、岩戸をこの地まで投げ飛ばした(戸隠山となった。)天手力雄命を勧請したのが始まりと伝えられています。その後、嘉祥2年(849)に学問(行者)によって戸隠寺(奥院)が開山され多くの修験僧が修業に訪れる全国有数の聖地となりました。平安時代後期頃から神仏混合し本地仏を正観音とする戸隠山勧修院顕光寺となり奥社は奥院と呼ばれ信仰の中心的な存在となり、康平元年(1058)に相殿だった宝光社(宝光院:福岡院)を、さらに寛治元年(1087)に中社(中院:富岡院)を分社して3院体制となり戸隠三社とも呼ばれるようになりました。
特に鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛し戸隠十三谷三千坊とも呼ばれ多くの修験道場や宿坊などが軒を連ね、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」に数えられ大きな影響力がありました。戦国時代に入ると越後の上杉家や甲斐の武田家などの戦乱に巻き込まれ一時荒廃しましたがその後、再興され江戸時代には幕府から1千石の社領を安堵されるなど庇護された事で、参道には現在見られる杉並木と共に多くの宿坊が建ち並び一大門前町を形成しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏希釈により本地仏だったを正観音が廃され奥院は廃寺、戸隠神社奥社として独立し国幣小社に列しました。
度重なる災害などで当時から建物は随神門(寄棟、茅葺、三間一戸、八脚単層門、往時は仁王像が安置されていたと思われますが現在は随神像が安置され随神門となっています。)だけとなってしまいました(宿坊は中社と宝方社門前に移されました。)。現在でも参道には樹齢400年を越える杉の巨木が聳え大講堂屋敷跡や宿坊跡などの名残が随所に見られ、「戸隠神社奥社社叢」として昭和48年(1973)に長野県指定天然記念物に指定されています。又、境内一帯は古くからの山岳信仰を伝える貴重なものとして昭和54年(1979)に長野県指定史跡(戸隠神社信仰遺跡)に指定されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-長野県教育委員会・長野市教育委員会
・ 現地案内板-長野県教育委員会
・ 現地案内板(戸隠神社奥社 御由緒並びに御神徳)
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