菅江真澄

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人 物 名
備 考
・菅江真澄・菅江真澄は江戸時代中期の宝暦4年(1754)に三河国で生まれたとも言われ詳細は諸説あり不詳、岡崎説と豊橋説が有力のようです。菅江真澄は幼少期には植田義方に和学や和歌、青年期に丹羽嘉信から漢学や画技、浅井図南から本草学や医学を学んだ事から、その教養は民俗、歴史、地理、文学、考古、宗教、科学など多岐に渡ります。後年は特に、津軽地方、蝦夷(アイヌ)、秋田地方で行動し地誌などをまとめています。青年時に故郷を離れてからは、1度も戻る事なくひたすら旅に次ぐ旅を重ね、そこで見聞きした事を詳細に書き留め、挿絵や考察を交えながら数多くの著作物がある事から日本民族学の祖とも言われ、菅江真澄を研究する人も数多く存在し、彼のまとめたものは1級資料としての価値も高く国指定重要文化財に指定されているものもあります。晩年は弘前藩(青森県弘前市:本城−弘前城)津軽家や久保田藩(秋田県秋田市:本城−久保田城)佐竹家からの依頼により地誌の編纂という肩書きを得てある程度の資金を支給されていましたが、当初は後ろ盾(出資者)がいたのかも不詳で、何故あれだけの長期間に行動出来たのかは謎とされます。菅江真澄が木曽路を訪れたのは天明2年(1782)5月、真澄29歳の時で、その際に木曽路、信濃を旅し一端故郷である三河国に戻り、さらに、京都や伊勢神宮参拝を済ませ、天明3年(1783)から故郷に戻る事の無い長い長い旅に出かけています。

その為、多くの資料や著書が残されているは天明3年(1783)以降の事で、天明2年(1782)頃は断片的な事しか判りません。「粉本稿」と呼ばれる資料には天明2年(1782)の木曽路の旅から、信濃路、出羽国縦断、陸奥国に至った天明6年(1786)までが写生されています。

その他には回想として文化7年(1804)真澄51歳の時の遊覧記である「男鹿の秋風」に「女川にも、水江の浦嶋が子の物語がある。木曽路の寝覚の床、それに津軽の浦々にあったのと同様である。」との一説があり、男鹿半島の女川集落(現在の秋田県男鹿市船川港女川)に伝わる浦島太郎伝説は木曽路の寝覚の床と同じようであると認識しています。この事から20年以上前に木曽路に旅していた際に寝覚の床を訪れ、そこに伝わる浦島太郎伝説を見聞きしていた事が窺えます。文政7年(1824)真澄71歳の時、久保田藩の地誌編纂事業として編纂された「雪の出羽路・平鹿郡」では「新町の彦兵衛の蕎麦素は阿仁の銀山の産に似て、木曽の寝覚の床の味にやや似たり。」の一説があり、40年前以上前の寝覚の床で食べた蕎麦の味を覚えていた事が窺えます。これらの事から菅江真澄は「寝覚の床」の事を大変印象深い所だったと認識していたようです。

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